すまん。めったにこないので「ロダにまとめてあげる」というのがもひとつよく分からない
すれ違った人の顔が一瞬母親の顔に見える。
あれ?っと思った瞬間には、別人だと気がつく。
たとえば年齢や背格好が似てる人ならまだしも、
年齢も性別も背格好もバラバラの人なのに、ほんの一瞬だけ顔が母親の顔に見える。
そんなことがほぼ毎日のように1日に4〜5回あった。
さすがに何かあったんじゃないかと思って何度か電話をしたが、
母親の様子はいつもと変わりがない。元気そう。
気のせいで済ましていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
3月、母親から電話があり、春くらいに
従兄弟たちやみんなで集まってバーベキューをするという。
あんた1人だけ行かないわけにいかないから、絶対に来いと。
そういう集まりにあまり行こうとしない俺の性格を見越して、
絶対に参加することを強く約束させられた。
そして4月に入ってからバーベキューの日が5月6日に決まったという知らせがあった。
4月24日の朝、妹から母親が入院したとのメールがあった。
このときは「念のために検査」という目的で、午後には本人からも電話があり、
「たぶんお母さんはバーベキューには行けないけど、あんたは絶対に行きなさい」とのことだった。
5月6日、バーベキュー。妹は母親の看病のため参加しなかった。
20年以上ぶりに会う従兄弟たちはもう充分にオッサンオバサンになっていて、
俺以外には1人を除いてはみんな結婚している。
4〜5歳の子供がいるやつもいる。
それを羨ましそうに見ている父親を見ていると胸が痛んだ。
従兄弟たちにも「にいちゃん、早く結婚しておばちゃん安心させたって」と散々言われ、少々鬱陶しく感じながらも、小さな子供たちを羨ましそうに見ていた父親や入院中の母親のことを思うと、返す言葉もなかった。
バーベキューは思ったよりも楽しく、
叔母や従兄弟や血のつながったやつらと会うのも悪くないと思い、お互い連絡先を交換した。
▼
さっき、お腹にチューブ通して腹水抜いた
お父さんには、今晩話すけど
お母さん、肝硬変がだいぶ進んでて
見た目以上に危ない
多分これ以上の治療は、意味がないから
もう少し様子をみて退院するけど
在宅で往診してもらいながら、ゆっくり何もせずに過ごした方が良いらしい
その前に腹水が、まだまだたまるようなら
たまった水にも栄養があるから
血管に腹水を通す手術するかも…
癌みたいに命の期限はないけど
「家族はそれなりの心構えが必要」
ちょっと調子が良い時に、温泉に連れていってあげるとか
残りの時間を大切にしてあげて下さいって言われた
▲
このメールを読むまで腹水が溜まっていることも知らなかった。
てゆーか腹水ってなに?
検査のための入院じゃなかったの??
それなりの心構えってなに???
そもそも肝硬変ってなに??
たしかにそうだった。思い出した。
当時俺は外で悪さばかりしてて、母親が病気になったと聞いても気にも留めなかった。
それから20年、毎月検査をしていたが、これまでは目に見えるような変化もなく元気だった。
それが今年の2月くらいから急激に悪くなったらしい。
目の前が真っ暗になった。
どうしよう?どうしよう?しか頭になかった。
つい昨日、そろそろ親孝行しないとなーなんて考えてたところだったのに。
いまさら後悔しても始まらない。
残りの時間とやらがいつまであるかは分からないけど、できるだけ親孝行しようと心に決めた。
そして、できる限り病院へお見舞いに行くようにした。
1週間後の5月14日の夜、妹から電話があった。
駅からだろうか、電話の向こうでホームのアナウンスと雑踏が聞こえた。
妹は泣いていた。
その泣き声を聞いた瞬間、血の気が引いた。
母親の余命は3ヶ月だった。
今年に入ってから頻繁に見てた母親の幻覚の理由はこれだったか。
虫の知らせってやつだったか。
妹が病院で告げられたらしい。
今は普通に話せるし、トイレも1人で行けるけど、
近いうちにそれもできなくなり、腹水も黄疸も今以上に酷くなり、
熱が出て、脳性肝症になれば意識が
混濁しこん睡状態になり、そのままシんでいくという。
電話を受けた俺は妙に落ち着いていて「そうか、わかった。明日病院に行く」とだけ伝えた。
落ち着いて話しができたのは、電話の向こうで妹が泣いていたからだと思う。
妹はこの数週間、1人で母親の面倒を見ていた。
余命宣告を受けても誰にも言うつもりはなかったらしい。
そのことを看護師に言うと
「本人やお父さんにはともかく、お兄さんには絶対に伝えないとダメ!」と強く言われたらしい。
ありがとう
両親は2人そろって気が弱い。
絶対に言えない。
妹との電話を切ってからはあまり覚えていない。
何人かの友達に泣きながら電話したと思う。
0時過ぎになってふと我に返り、朝まですごい勢いで母親の病気の事を調べ始めた。
原因、治療、予後、家族にできること。できる限りのことを調べた。
翌日、病院へ行き主治医と話した。
長男でありながら、余命3ヶ月の母親の主治医と話すのはこれが初めてだった。
今年に入ってからの検査数値やCTスキャンの画像なんかを見せられ、
現在の状態では3ヶ月後になくなる確率が50%。
でも中には1年くらいはもつ人もいると説明を受けた。
どっちにしろ1年もたないらしい。
昨晩から調べに調べて、心に決めていた1つの言葉を投げかげてみた。
「生体肝移植はできないですか?」
医者は少し黙ったあと
「・・・・できないことはないですけど、今のお母さんの体力で手術ができるかどうか・・・」
俺は見逃さなかった。
生体肝移植という言葉を出した瞬間に、医者の表情が少し、ほんの少しだけ緩んだ。
ホっとしたような顔をした。
引き下がってたまるか。
「素人考えで申し訳ないですけど、助かるにはそれしかそれしかないんですよね?もう遅いんですか?」
「いや、遅くはないです。・・・
手術するなら今しかないでしょうね。でもあれは本当に大変ですよ。がんばれますか?」
もう医者は笑顔になっていた。
俺は心の中でガッツポーズをしてた。
悪くなった人の肝臓をすべて取ってからそこに健康な肝臓を移植する。
移植したほうも、されたほうもだいたい1年くらいで元の大きさと機能に回復する。
ドナーは、まず健康であること、そのほか患者から3親等
(病院によって違う)までの人に限るとかそういう条件がある。
つまり家族のうち2人が大手術&長期入院することになる。
もちろん経済的にもかなり負担がかかる。
後から聞いたところ、母親がいよいよというときには
医者のほうから生体肝移植の話を切り出すつもりだったらしいが、
手術の性質上あまり積極的に医者が勧められるものではなくて、
中には手術をしたくてもドナーになれる人が身内にいないとか、
他の理由でしたくてもできない場合もあるので、
手術ができなかった場合、残された家族が負い目とか精神的にダメージを受けるかららしい。
そして医者の中には、健康な人の腹を切り、
内臓を取り出すこの手術を倫理的な理由で嫌う人もたくさんいるらしい。
「大丈夫です。今は血液型が違っても移植できます。じゃその方向で進めましょう。」
医者はさっきまで言葉を選びながらゆっくりと話していたのに、
移植の意思を示したあたりから急に早口になり口数も多くなった。
医者は続けた。
「お母様には私から移植の件を話しますね。息子さんや娘さんが話すと
たいていの場合は移植手術を断る人が多いんです。ドナーにも少なからず危険はありますから
健康な自分の子供をそんな目に合わせられないって人が多いんです。」
俺は「いや、私が母に言います。ちゃんと説得します。」と言った。
母親には余命を隠している。
しかもこの時点で、翌日に母親は退院することが決まっていた。
本人には、家でしばらくゆっくりして様子を見ると伝えていた。
でも本当は余命を穏やかに家で過ごさせるため。
そんな母親に移植手術なんて大層なことを承諾させるのは難しくないですか?
と医者は気遣ってくれた。
なぜか俺が言わないといけないような気がしてた。
前日の電話で妹が泣きじゃくってたのが頭から離れなかったのもあったし、
今後は俺ができる限りのことは何が何でもやってやろうと思ってた。
本人は少し休めば元気になる程度にしか思っていないので、なにかと家事をしたがる。
気が気じゃなかった。
退院した夜、父親に話した。
気の小さい父親のこと。
余命宣告だけなら話すつもりはなかったけど、移植手術をするとなるとまた話は違う。
ちゃんと話しておかないといけない。
お母さんはこのままだと3ヶ月の命だということ、
助かるには俺か妹のどちらかがドナーになって生体肝移植をするしか方法がないこと。
黙って俺の話を聞いていた父親はあきらかに動揺していた。
「わかった。お前に任せる。」と言うのが精一杯のようだった。
話をして1時間くらい経ったとき、父親が俺の部屋に来た。
部屋に入るなり父親は俺に土下座をした。
「頼む!お母さんを助けてやってくれ!
お父さんはなんもできへん!頼むから助けてやってくれ!お願いや!」
父親は見たことないくらいボロボロと泣いていた。
「お母さんな、生体肝移植するから」
「え?なにそれ?」
俺がドナーになって肝臓を母親に移植すると伝えた。そうすれば助かると。
「お兄ちゃん、お酒いっぱい飲むのに大丈夫なん?私のんじゃあかんの?」
「どっちがドナーに適してるんかは色々検査せな分からんやろうけどな。
お前はドナーになってもええんか?」
「全然いいで。それでお母さん助かるんやろ?」
必ずしも助かるとはいえないけど、日本ではこれまで
9000例以上行われてる手術で、そのうち手術後5年生存率が約80%あることを伝えた。
妹は本当に嬉しそうだった。
このまま続けてくれ
これらはもちろん「家でゆっくりと余生を過ごさせる」ため。
移植手術の話をする前から、入院先の病院が手配してくれていた。
母親は「そんなたいそうにしてもらわんでもええのに・・」と笑っていた。
在宅医療の医者を見送るとき、家を出たところで移植手術を計画していることを伝えた。
この医者には、入院先の病院から母親の病状や予後は引き継がれている。
先生は「うん、それしかないでしょうね。でも大変ですよ。頑張りましょうね」と言ってくれた。
すぐに母親の寝てる部屋へ行って移植手術のことを切り出した。
このときに俺が言った言葉は死ぬまで忘れない。
「お母さん、あのなぁ、今ごっつしんどいやろ?
これからゆっくりして良くなったとしても、
また次に悪くなったら大変やからな。
今みたいに多少でも元気なうちに肝臓の移植手術受けたほうがええんちゃうか?」
「移植!?誰のを移植すんの?」
俺か妹のどちらかだというと、母親は一気に顔を曇らせた。
「大丈夫やで、いまどきの医学はすごいねんで。
移植ゆうても盲腸の手術みたいなもんやわ。
パッパーッと切ってどっちがドナーになっても一ヶ月くらいしたらピンピンしてるわ。」
俺は嘘をついた。数は多くないにしても
ドナーのシボウ例はある。死なないまでも重篤な後遺症を残すこともある。
母親はしばらく考えたあと「じゃ、あんたらにまかせるわ」と言った。
簡単に承諾したので拍子抜けした。
すぐに入院してた病院に連絡をして、母親が手術を承諾したことを主治医に伝えた。
1日でよく説得できましたねと言われた。
嘘をついたとは言えなかった。
1週間ほどして病院から連絡があった。
生体肝移植ができる病院はK、H、Sの3つあるけど、どこにしますか?
俺はなんとなく自宅から近いという理由で「S大でお願いします」と伝えた。
折り返し連絡があり、すぐに紹介状を送るので、
それを持って5月22日にS病院に行ってくれと言われた。
これで助かると思って嬉しかった。
余命宣告された日から有休を使って仕事をずっと休んで、
母親の世話をしたり、在宅介護や医者や役所の手続きなどで追われていた。
これまでのように妹にまかせっきりにするのはやめようと思った。
余命宣告を1人で聞いて抱え込んで泣いていた妹に申し訳なくて仕方なかった。
家族全員でS病院へ行った。
カウンセリングルームみたいなところへ通され、
この1週間ほどの間にネットで散々顔を見た教授先生が
まず簡単に話をしてくれて、主治医となる先生と移植コーディネーターさんを紹介してくれた。
主治医は30代半ばくらいのかわいらしい顔をした女性。
正直、最初は大丈夫かな?と思ったけど、
手術の概要やスケジュールを説明してくれた主治医の様子を見て安心した。
ふにゃっとした話し方ながらも要点をきっちり押さえてて、
こちらが知りたい情報をテキパキと説明してくれた。
生体肝移植の問題点や合併症の危険性を聞いた。
同時に移植手術が上手くいけば、ビックリするくらい元気になるとも聞いた。
そして最後に主治医から母親への生体肝移植への意思確認がされた。
「お母さん、これからかなりしんどいこともありますけど、頑張れますか?」
その問いに、朝から動いてしんどかったであろう母親は小さい声で搾り出すように
「今みたいにしんどいのはもういやです。
元気になれるならなんでも頑張ります。なによりこの子達のためにも頑張ります。」
妹が泣き出した。
部屋には主治医、コーディネーターの他にも
大学病院ならではの研修中の医学生たちが10人ほどいたんだけど、
その学生たちもなぜか泣いていた。
それを見て俺までがもらい泣きした。
「大丈夫、お母さんがその気持ちなら私たちも目いっぱい頑張ります。
1年後には今日のことは思い出話になってますよ。一緒に頑張りましょう!」
この日までの役所まわり、介護関係の書類、
そのほか今までやったことのないことを必死でやってた疲れと、
この先どうなるのかって不安もあって、俺は精神的にかなり参っていた。
それがこの日の母親と主治医のやりとりを聞いてすごく元気になって勇気をもらった。
コーディネーターさんに今日はいったん帰ってもらって、
あらためて入院や検査の日程をお知らせしますと言われた。
帰る間際に、今日なんとか母親の腹水だけでも抜いてもらえないか頼んだ。
どちらかといえばスリムな母親のお腹は腹水が溜まって膨れ上がり、
動くのもしんどそうだったのでかわいそうで仕方なかった。
抜いてあげたいけれど、今後の手術のことを考えると、
針を刺す処置は感染症の危険もあるのでできればしたくない。
お母さんには悪いけどもう少しだけ辛抱してくれと
言われた。
3日くらいしてから、5月31日に入院が決まったとコーディネーターさんから連絡があった。
そのときに俺ら兄妹2人もドナー検査をするので家族全員で来てくれといわれた。
入院の日が決まり、ニュースやドラマでしか聞いたことのなかった
「生体肝移植手術」というものが、現実にすぐそばまで来た。
もしかしたら自分がドナーになるかもしれない。
俺の覚悟は決まっていた。
手術が上手くいって母親が元気になるのなら、
俺の寿命から10年、いや20年減らしてもかまわない。
これまでにかけた心配と迷惑を考えれば、それでも足りないくらいだ。
本気でそう思っていた。