自分語りがはーじまーるよー
スペック(当時)
高3女
スイーツ(笑)脳。あくまで当時。
全ての始まりは、高三の春、左顎の下部にしこりができたことだった。
できものは直径3cmくらいで、触っても痛みはなく、ただ存在するという感じ。
ゆとりな私はしこりのコリコリ感を楽しんでいたwwww
大事だとは思っておらず、母に相談し、昔から診てもらってる町の先生のところに行った。
町医者のところでは、検査設備も整っていなかったこともあり
1週間後くらいに隣市の病院に行くことになった。
クールビューティーな感じ。
付き添いの父がデュフフしており、きれいな女医さんって本当にいるんだなぁと思ったwww
とりあえず、色々な可能性が考えられるが、腫瘍も大きいし、最終的には切ってみないとわからない。
と言われたので、一週間後に手術となった。
人生初の手術は全身麻酔で、あっという間に終わった。
そのとき生理だったのだが、終わったあとに股間を見たらナプキンが換えられていたんだが
誰が変えてくれたんだろう・・・
その後2日ほど入院し、傷口の状態を確認して、とりあえず一時的に退院した。
腫瘍は検査に出して、結果が出たら電話します、また来てください、と言われた。
このころには、季節は秋になっていた。
J( ‘ー`)し「なんか別の科でまた診察を受けないといけないんだってー」
私「あっそうー」
その週、学校を休み、午前中にT先生のところへ。
「今回の腫瘍は、悪性腫瘍とのことでした。
血液内科の先生がいますから、治療はそちらになります」
当時は悪性腫瘍がなんなのかもわからなかったゆとりだが
なんとなくいやな予感がした。
そうそうwwww普通の人ならそう思えるんだが
マジで何のことやらという感じだった。
血液内科って何wwwwかっこいい名前www来週学校行ったら友達に自慢するばいwwww
くらいの余裕はあった。
血液内科の先生は夕方になるとのことなので、
その間、ご飯を食べたり、なんだろうねー?と言い合ったりしながら
17時くらいに待合室に行った。
が、いつまで経っても呼ばれない。
19時くらいになっても呼ばれないので、さすがに飽きて
また来ればいいだろうと思ったので、
看護師さんに「日を改めても良いですか?」と聞いたところ、
「先生に確認します」と言われた。
戻ってきた看護師さんから、
「すみませんが、もう少々お待ちいただきたいとのことです」
と言われたときにもまだ、
ちっめんどくさいなー 明日休みだからいいかーwww三連休おいしいですwww
くらいに思う察しの悪いアホゆとりだった。
その先生は、父と同い年くらいで
眉毛が異様に長かったので、眉毛先生としよう。
眉毛「耳鼻科で結果は説明を受けてますか?」
私「えっと悪性腫瘍ということは聞いています」
眉毛「正確に言うと、その中でも高悪性度のものになります」
私 「はぁ・・・・」
J( ‘ー`)し 「入院は、必要なんでしょうか」
眉毛「若いから進行も速いでしょう。すぐにでも入院してください。半年くらいになります」
半年って・・・・
高校卒業できるのか?まずは来月の遠足・・・もう遠足に行く服買ったのに・・・
お正月はかまぼこ食べまくる自分的イベントが・・・クリスマスはケンタのチキン・・・
受験はどうなるんだろう・・・
まさか、全部無理だったりして(笑)
いやいや(笑)
2秒くらいで↑のようなことを考えていた。
遊ぶことと食うことしか考えてないというのがおわかりいただけるだろう。
眉毛先生はとても良い人だった。
動転する母と私を相手に、改めて病気のことや、治療方法の説明をしてくれた。
ほとんど覚えていないのだがw
眉毛「僕は患者さんには楽観的な言い方はしないようにしています。このまま放置したら確実に亡くなります。
これが80歳の方だったら、辛い治療はせず、残りの時間を楽しく生きるような方針にするでしょう。
でもあなたは、まだ17歳なんです。これから何十年も生きなきゃならないんです。」
そして、土日明けの月曜日からの入院が決まった。
診察室を出るとき、母が先生に「お願いします。お願いします。助けてください。」といいながら泣いていて、それが何よりも辛かった。
よくわからない責任感で私が泣けなかったwwww
話していると電話口で友達のほうが泣いてしまうので、途中から友達への連絡はメールにしたw
こんな状況なのに、泣いてくれる友達がいて、自分は幸せだと思った。
どうでもいいけど、母が動転して事故とか起こさないかすごく心配だったw
私が幼稚園のころの話だが、味噌汁にシャンプー混入してしまったり、結構どじっこなところがあるからww
病気のことを話さなければならない相手がいた。
一人は、ピアノの先生。もう一人は、幼馴染のT。
Tとは、ひとつ年下で、ピアノがめちゃくちゃうまい男の子だった。
家はちょっと離れてるけど、ちょいちょい遊んだりする不思議な関係。
こいつとは後に色々あるんだけど、それはまた別の話w
私「T、ちょっといい?」
T「何?」
「私、ぶっちゃけ、癌になった。入院する。」
「え!?癌!?」
「ちょっ何気に声大きいwww」
「ごめん。でもどういうこと?」
病気の説明を色々として、半年くらい入院になることと、できたらお見舞いに来てwとお願いした。
最初の一週間は、病気がどれくらい進行しているか、転移はあるか、などなどの検査をする。
その後は、クリーンルームへ移動し、抗がん剤治療をする。とのことであった。
クリーンルームに行ったら家族以外の面会はNGと言われた。
この時点で心が折れそうになり、友人にメールした。
私「なんか今週しか会えないみたい」
友達「マジで?ちょっと今あんたのことで会議してる」
私「会議って何?」
友達「いいから。金曜日までは会えるのね?」
いつも5人くらいのグループで遊んでたので、
みんなでお見舞いの計画でも立ててくれてるのかな?とwktkしている自分がいた。
先生に早退許可をもらったらしい。
お勉強はあまりできない子だったけど、高校は本当に楽しかったから
久々に会えてうれしかった。
その手には千羽鶴があった。
私「えっwwwちょwww」
友達1「クラス全員で折ったからwww」
私「受験の大事な時期にwww」
友達2「ちなみに他のクラスの友達も折ってたからwww」
友達3「折り紙の裏に応援メッセージとか書いてあるから!強力な念がこもってるよ」
なんていうかもうね・・・
感涙した。
私が通ってた高校は、90%以上が大学に進学する中の上くらいの進学校で、
秋口なんて本当に大事な時期なのに
授業そっちのけで折ってくれたことが、ありがたくて申し訳なかった。
折ってくれた人の中には、普段あまり話さない男子や
ぶっちゃけ私は嫌われてるんじゃないか?って思っている女子もいて
よかった・・・千羽鶴折ってもらえる程度には嫌われてないんだ
とか、変な安心をしたりもしていた。
ちなみに、このことを母に話したら、複雑ながらも喜んでくれていたようだ。
中学のころ、1年間んくらい軽いいじめにあっていたことがあり
高校では友達ができたことを喜んでくれてたのかもしれないw
それはそれで複雑wwww
今はやはり病弱な子ですが気持ちは超元気です!
サーセン書きためがここまでです!
上にも書いたとおり、今は普通に元気に暮らしてる。
一般的に、若くして癌=死ぬ、人生終了ていうイメージがあるだろ?
自分も入院中、某芸能人の方の訃報が流れたり、インターネットで亡くなっちゃった方の闘病記とか読んで
それだけで自分ももしかして・・・と思っていた時があったんだ。
だから自分が治ったという話を書いて、今闘病している人やその家族がいたら、
自分なりに勇気付けられたらなーと思ったんだが
やっぱおこがましいなorz
もし需要あったら、また書きためてからこようかなと思うんだけど
どうでしょうか。
毎日超乙です!
病院で働いてる人には、今でも超感謝してます。
読んでるよ
俺としては書いてほしいが
別にあとでも構わんよ
これからも元気にバリバリ生きてくれ
一週間ほどの検査を経て、
・転移はない
・つまりステージ1。(ステージ1~4だか5だかまであって、数字が高いほどやばめ)
・来週からゴリゴリ抗がん剤を入れる。
・この病気は再発するとしないとでは天国と地獄ほど違う。耐えれ
こういうことになった。
ちなみに髪の毛は、エクステ()をつけていて、
せっかくバイト代で美容院行ったのに超もったいなかったが
闘病するためにばっさり切ることにした。
バリカンを使ったのは後にも先にもあのときだけだ。
あと、胃カメラはもう二度と飲みたくない。ゴボゴボ!ってなった。ゴボゴボ!って。
抗がん剤はさぞ辛かったことだろう。
ちなみに腕からじゃなくて、じょうみゃく?どうみゃく?の太い血管から薬を入れるために
鎖骨の下辺りへ点滴の管を刺してたんだが、それらを固定するために
肌に直接糸で縫いつけたんだが
あれがすごく痛かった・・・
副作用で、よく吐き気とか言われてるが、自分はゲロの匂いが苦手なので出ないように祈ってた。
以下、お食事中の人は注意。
抗がん剤を入れ始めて30分ほどした後から、一気に気持ち悪くなった。
そのとき、当時好きだった人と電話でしゃべってたんだが
しゃべってる途中で吐きそうになり
しかし、スイーツ()だった自分は吐く事を悟られたくなかったので
「ごめん眠くなっちゃったから寝るね☆電話ありがとう☆」などと都合のいいことを言い
トイレにダッシュし思う存分吐いた。
夕食で食べたものが全部出ていた。
これは・・・と思ったが、嘔吐は1回では終わらなかった。
とにかく出るわ出るわwww30~1時間ごとに吐く。
寝ていても吐き気で起きる。
自分は本当にゲロの匂いが苦手だ。
妹の嘔吐臭でもらいゲロスキルを発動するレベル。
本当に嫌だったが、洗面器に吐くと処理も大変だし
一時的に我慢しても結局吐いてしまうので
催しそうになったらダッシュでトイレに行き、思う存分吐くスタイルを取ることにした。
個室ということもあり、トイレまでの距離が近いことも幸いし
トイレダッシュスタイルが失敗したのは、闘病中1回だけという
意味不明な自慢をしておきたいと思う。
しかし、次の副作用が始まった。
抗がん剤は、悪いがん細胞をたたくのはもちろん
良い細胞もたたいてしまうものらしい。
そのため、一時的に白血球が低下して、熱が出たり、感染症にかかりやすくなるらしい。
そのため、クリーンルームに隔離するとか。
(医学的なことはわからないのでこんな説明になってしまう。誰か間違ってたら訂正よろ!)
自分はこの高熱もなかなか辛かった。
とにかく40度台まで熱が上がる。
最高41度。
42度になると、たんぱく質が固まって脳が・・・とかいう話を聞いたことがあり
超gkbrしていた。
眉毛先生に、とにかく高熱がつらいことを訴えると
「解熱剤をあげましょう」
といわれ、解熱剤をもらった。
そうすると、30分くらいで熱が下がるのだが
数時間するとまた上がってしまう。その繰り返し。
また、一日に使える解熱剤の数も決まっており
夜中に効果が切れてしまったときは一晩中うんうん言っていた。
それが5日間くらい続き、
治療が始まった当初は楽勝wwwwwというテンションだった私の心は折れた。
腕の血管だと抗がん剤が漏れた時にリスクがあるんだよね。
鎖骨下に中心静脈があるから抗がん剤治療の時はそこを利用する。
抗がん剤はメソトレキセートかな?
そうなのかー!教えてくれてありがとう。
確かに、逆流したり腕がパンパン?になってる人もいたようで
大変そうだったなぁ。
抗がん剤の種類は覚えてないやwごめん。
なんか透明のやつと、パイナップルジュースっぽいやつだったと思う。
このときには完全に悲劇のヒロインモードになっていた。
17歳なのに学校にも行けず遠足も行けずバイトも遊びも行けずピアノも弾けず生ものも食べられず
こんなクリーンルームとかに閉じ込められてるアタシカワイソウ!!
という発想で、家から車で40分くらいかかる距離を2日に1回お見舞いに来てくれる母のことや、
仕事が終わってからお見舞いに来ておもしろい話をしてくれる父のこと、
病院から5分くらいのび●くりドンキーでバイトを始めてくれて、バイトの日はほぼ毎日来てくれる妹のこと、
相変わらず受験で大変なのに手紙をくれるクラスメイトのこと、
毎日外の世界のことを話してくれる友人のこと、
ほんとうに何も見えなくなっていた。
1週間くらい泣いた。
ティッシュをびりびりに破ってみたり、眉毛先生や看護師さんたちにわがままを言ったりなど
入院中の黒歴史である。
しかし黒歴史はあるときをきっかけに終わることになる。
後出しになってしまうが、>>8の手術前に少しだけ話したとき、クールビューティー先生は、
自宅と同じ町内の、中規模な病院の院長先生の娘さんと聞いており
同じ町内に住んでいることを知っていたので、勝手に親近感を持っていたりしたw
「1ちゃん元気ないんだって?そろそろクリスマスだからクリスマスプレゼント持ってきたよ」
「1ちゃん眠れないことを気にしてるって聞いたよ。
眠れないときは携帯電話でもいじったらどう?
最近ゲームとかあるんでしょ?あっ本当は携帯電話NGだけどねww」
「1ちゃん、元気になってまた耳鼻科に遊びにきてよww」
そう言うクールビューティー先生の手には、サンタクロースのキーホルダー人形があった。
クリーンルームという狭い世界で鬱になってた自分を確実に変えてくれた、と思う。
これは私の推測だが、医師から患者に個人的にプレゼントを渡すというのは、
若手のクールビューティー先生にとって本当は規則に反することだったのかもしれない。
けど、クールビューティー先生は全くそれを感じさせず、私に言葉をかけてくれた。
それが本当にうれしかった。
そこからは鬱モードになるのをやめ、
絶対に生きる!絶対にクリーンルームから出る!という気分になった。
気持ち悪いくらいに変わった自分を見て、看護師さんは「1ちゃんいい子になったねw」と言ってくれた。
眠れなくて辛い日には、携帯で風来のシレンをやって暇をつぶした。
また、同じ病気の人から借りた漫画を読んだりしていた。
色々あったが、抗がん剤→吐く→高熱→副作用なくなる、という経過を経て
治療の1クール目が終わった。