話の始めはスレ違いに思えるかも知れないが吐き出させてくれ。
10年前の春、私(♂)夫婦と同居している私実両親のうち、母が3年の闘病の末亡くなった。
俺様な父は自分の妻の葬儀にも喪主を私にマル投げ、面倒なことは全て私と妻がやり終えた。
私には仕事もあるので、夕飯時などは妻が家事を一人でこなしていた。
父は止める母が居なくなったのを良いことに朝昼晩と酒を絶やさなくなった。
後から判ったことだが、どうやらその頃から、舅の嫁イビリが在った模様だ。
妻は、当時独立してまもなく自営業を軌道に乗せようと必タヒになっていた私に心配を掛けまいとしていたらしい…
母が春に亡くなり、その夏、妻の身体に異変が起きた。
末期の癌であり、早くて3ヶ月、もって半年だと言う。
長くなるので、分けて書きます。
余命宣告に目の前が真っ暗になった。
まだ子供は小学2年生、それも少し前まで可愛がってくれていた祖母を亡くした哀しみを何とか乗り越えたところだと言うのに…
当時サラリーマンから転進して自営を始めて間もない私は、勤め当時とは比較にならない収入を上げられるところまで頑張れたのも、
妻との未来を想定してのことだったのに…
若い妻の生きたい、と言う力を信じて、手術が行われた。切除した部位により、もう息子は兄弟を持つ望みが無くなった。
外科手術、その後の化学療法、掛かる費用は尋常ではなくなっていた。
簡保などでは到底追いつくはずも無く、あれが勤めの頃なら、経済的に破綻していたに違いない、と確信できる。
一旦退院できるまでに奇跡的に回復し、定期的な通院による化学療法を受けることとなった。
しかし、その副作用は当人以外には想像出来ないほどのダメージを与えるものだった。
続きます。
思う存分書きな。
妻は、自慢の髪が殆ど抜けてしまったとき、さめざめと泣いた。
私は、ただ抱きしめてあげるしか出来なかった。
自分は、もしかしたら、病気以外の苦しみを更に与えてしまっただけではないのか、と。
しかし妻は、母親の大好きな息子に、苦しむ姿を見せることが無かった。
それでも、化学療法は通院と言えど、2週休んで2週入院、と言う半入院生活。
病院に居るときには父が孫の世話をする日が続いた。
それが後々、とんでもない間違いだった、と言うことになるのである。
一年後、1回目の手術で取りきれなかった部位の切除の為、2度目の手術を行った。
1回目に当てに出来た医療保険は、2回目のときには何処にもそっぽを向かれた。
全て自費、である。高額医療費貸付制度なども最大限利用して日々の暮らしを頑張っては見たものの、
目に見えるほどではないが、ジリジリと財政が危なくなるような悪い予感がした。
2回目の手術を終え、定期的な通院による化学療法をひと段落終え、自宅での生活が始まった。
息子は中学受験を目指すことを申告してきた。母の病気を治す医者になる、と。
続きます。
人の命を見ゴロしにしようとする保険会社の名前を出してください
ありがとう。
334です。
もともとお手伝いさんが居るほどの大きな家で幼少を過ごした父は、戦.争で何もかも失って孤児院に行くことを余儀なくされた人だった。
それゆえ父は、生来のお坊ちゃんならではの我侭と、戦.争孤児により世を恨む虚無主義とが混在している、実に難しい老人になっていた。
そんな父に、妻が入院中、息子が情緒を育まなくてはならないときに、父が孫に吹き込んだ思想、
「どんなときでも自分以外は信用するな」所詮この世は苦しいことだらけ、と言う考え方は、後々息子の思考パターンを支配してゆくことになる。
通院とはいえ、化学療法はやはり患者自身にとっては辛い。
全身を襲う倦怠感、それにより家事も侭ならぬことが多くなってきた。
私も出来るだけ家事に関わり、時間の許す限り手伝ったが、生前の母のような世話が息子の私に出来る訳も無く、
父は酔っては文句を言うようになって来た。
「もう退院してるんだから、家事をちゃんとやって貰わんと困る」
癌が完治した訳でも無く、タヒに至る病を抱えて、妻は気丈に頑張ったが、
ある日、亡き母に託されていたことを僕の居ない間の夕食時に妻が父に言った
「お義父さん、お酒は控えましょうね。お義母さんにも言われていたのでお伝えしますよ。」
そうすると父は逆上し、
「やっとブレーキが亡くなって好きなだけ飲めると思ったのに、何でそんな事云うんじゃ!
お前の顔見取ったら酒が不味くなるから、二階に上がって貰ってエエ」
と。
そう云われたことがきっかけに、妻は鬱になった。
2階の寝室に引きこもりがちになり、笑顔が減った。
続きます。長い話で申し訳ありません。
癌の治療についての保障はしない、と言う名目でした。
334です。
何とか中学受験を突破した息子は、誰よりも強いモチベーションがある、と信じていた。
しかし、後にも述べるが、優しい心の持ち主だった息子は、ずるさを身に着けてしまった。
引きこもりがちになった妻に、父の容赦ない言葉の暴.力が降りかかるようになった。
「何もせんのは、甘えているだけと違うのか」
私は当然抗議した。貴方は現状を理解できないのか、と。そうすると、
「ワシは不幸じゃの。親にも捨てられ、妻にも先立たれ、今度は嫁にも見捨てられ、
嗚呼、この世は憎い、ワシはこの世で一番不幸じゃ。」
こちらの話を聞こうともしないで、自室に戻り、寝る。
そんな日々が続いた。出来るだけ息子の目には触れないように配慮したが、
父は、孫と二人のときに、かなり刷り込んだらしい。
「ワシは父に捨てられたようなもの。オマエの父親もそのうちお前を見捨てるかも知れんぞ。
所詮この世で信じられるのは自分だけ。よく覚えておけ。」
父は自分の手を汚すことを是としない人で、掃除、洗濯、調理買い物と、
家事の殆どを私がすることになった。
それでも妻の手をとって一緒に父不在時の折には居間で楽しい時間を演出するように心掛けていた。
どうやら、父には、「彼女」と呼べる女性が外部に居るようである。
そうこうして数年が経った。余命長くて半年、と言われてから6年が経っていた。
私は、病院治療のほかに出来ることは無いか、と、
心もとない英語力を生かして薬事法の所為で国内正規販売できないハーブティーの個人輸入をして
妻にそれを飲んでもらったりして、この数年間は、マーカー値も安定して、今思えばまるで夢のようだった。
しかし、病魔はそれを許さず、確実に進行していたのだった。
続きます。
書きたいだけ書いて
髪の毛のこともそうだけど、熱でたり、吐いたり
自分は何もできなくて
飲み物を運んだり、おでこのタオルかえたり、冷えピタとりかえたり、そんなことしかできなかった
情けなかったなぁ
妻の母がいてくれたので、炊事洗濯なんかはやってくれた
助かったなぁ
でも、もっとなにかできたはず。
そう思うと、辛くて、後悔してしまう
思い出すと涙がでてくる
sien
支援して下さる皆さん、有難う。
妻が亡くなって、もう2年半経つのに、まだジタバタしています。
それでも子供は大きくなって行き、父は年老いて行きます。
毎日が進んでいくのです。
僕が凹みきって、歩みを止めてしまえば、全てが終わってしまう。
このおよそ900日弱で、何が変わったといえるのか…
それは、逢いたい妻はもう居ない、逢えない、ということ。
何とか子供が成人するまでは、と、それが妻との約束だ、と思って頑張っているつもり。
思い出して、くじけそうになり、みっともないところを吐き出してしまうかもしれませんが、
どうか許してください。
化学療法を5年続けた妻は、疲れきっていた。
息子の成長だけが、妻の気持ちを支えていた、と言えた。
その5年の間に、何度も妻が訴えた。
「お願いだから、コロして。」
「このまま少しずつ弱ってタヒぬだけなら、今生きる意味は何が在るの?」
泣きながら訴える妻に、僕はまるで壊れたおもちゃのように、繰り返すしかなかった。
「それでも僕や子供にとっては、世界で一番大切な存在なんだ。
子供にとっては、今父親よりも、母親の方がずっとずっと必要なんだよ。」
また時には、掛ける言葉もなく、僕もただ泣きながら抱きしめるしかなかったときも数多在った。
そんな状態でも、してもらえないことに対する不満が絶えず父から僕たち夫婦に投げつけられた。
「今出来ないことがどうしてもある。我慢して欲しい。」と言っても、
父は、「それならワシは、お前らの足手まといだと言うのだな。タヒんで欲しいと思ってるんだな。」
とすぐに極論に走る。
そんな折、妻の実家の母親(義父は僕たちの結婚の翌年に亡くなっていた)の癌が発見された。
妻と同じ部位の罹患、ストマとウロストミの装着と相成ってしまった。
妻には兄が一人居るのだが、そのアニも糖尿から網膜症、失職して破産手続き、生活保護の対象となっていた。
義母は義父の遺族年金で何とか暮らしていけたが、それでも足りないところは、僕が補わなくてはならない。
今もそうだが、内憂外患、満身創痍の状態だ、と認識するのに、そう時間は掛からなかった。
続きます。
経済的には、表向きは何とも無いように振舞っていた。
特に子供には、財政が切迫していることを悟られぬように頑張った。
まだ僕の母が元気だった頃、母の悲願であった「持ち家」をもつこと、そうすることで親孝行をしたい、と思った僕は、
30歳になったばかりだったが、勤めから独立をして、25年のローンで土地を買い、小さいながらも家を建てた。
そのローンだけでも月に8万強、ボーナス時には40万弱の支払いが毎年発生する。
事業を起こしたばかりの初めの数年は、それでも幸先良いスタートを幸運にも切れたようなので、
息子を中高一貫校にも進学させてやれたし、母がずっと気にしていたお墓も購入できた。
しかし、妻の治療には、サラリーマンの平均月収くらいの額が平気で掛かってしまう。
前述のように保険が使えない。国保の制度で一番安く上げようとしても、それでも10万以上のお金が毎月治療費として出て行くことに。
それでも、自営業者になったのは、妻の治療費を払う為だったんだ、と自分を納得させながらの日々が続いた。
ふと足を止めようものなら、そのままヘナヘナとなってしまいそうな自分を奮い立たせることで精一杯だった。
気が付いたら、僕は糖尿になっていた。
因果関係もはっきりしないが、EDにもなっていた。
若いときの交通事故で、肝臓障がいの残る僕は、自分が医者に行くことも侭ならなかった。
朝5時に起きて子供の弁当、そして父と妻と息子の朝食を作り、
洗濯と買い物、身体が痛む妻の身体をさすり、入.浴介助をし、部屋の掃除の後、昼食を準備し、
昼食を取らせている間に夕食準備をし、その後仕事に出掛け帰ったら、
山のように積んである洗い物をし、妻の様子を見、会話をして自分が寝るのは
夜の2時を過ぎないことがなかった。
僕はそれでも、妻に生きがいを持ち続けて欲しかった。
続きます。
334です。
盆や彼岸、年末になれば、僕の家の墓と母の実家の墓(母の兄が当主なのに、世話をしないので母がしていた)、
加えて妻実家の墓と義母の実家の墓参りに僕は車を走らせた。父は、自分が入ることになる墓にすら、世話をしようとしない。
口癖のように、「ワシが生きた時代は、神も仏もなかった。信じられるのは自分だけ」と言う。
今では彼を、自己愛性人格障がい者だ、と僕は認定している。その自己愛性人格で、僕の居ないあいだ孫に説いているらしいから堪ったものではない。
それでも、某テーマパークが好きな妻の笑顔を取り戻そうと、大型の休みのときには、車を関西から千葉にまで走らせたりした。
しかし、妻の鬱が頂点に達するのは時間の問題だった。僕は余りにも無力だった。
ある日妻が僕に云った。「化学療法を止める。治らない病気を苦しんでまで戦いたくない。QOLを上げることに協力して欲しい。」
つまり、彼女は、タヒを受け容れることにしたのだ。
彼女の発病から5年が経っていても、僕にはまだその心の準備が出来ていなかった。
続きます。
妻は通院治療を止めた。僕はせめて、「フローエッセンス」だけは飲んで欲しい」と頼んだ。
不味いハーブティーだが、それはしぶしぶ承諾してくれた。僕は毎日、それを煎じて作り、毎日それを飲んでもらった。
日常的には、今までと余り変わらぬように思った。脱毛した頭髪も復活し、妻はことのほか喜んだ。
そして抗癌剤の副作用から解き放たれた妻は、少しずつではあるが笑顔を取り戻すようになっていた。
そんな日々が一年ほど続いた。子供は医者になるべく勉学に勤しみ、成績もそれなりのものを持ち帰ったりしていた。ただ、家族と言う点での家事への協力は不十分だったが。
僕はこのまま、妻の病状が治癒まで行かずとも固定してくれれば、などという幻想に似た希望を持つようになっていた。
相変わらず毒を吐く父に対しても、特に何も出来ずにいた。スルー以外の余裕がなかったと言えば言い訳になるのかも知れないが。
そんな、今思えば根拠のない、甘い夢を見ていたときはすぐに終わりを迎えた。
そう、僕はその時点でもまだ、情けない話、覚悟すら出来ていなかったのである。
2008年を迎えた冬のある夜、妻が暗い顔で僕に告げた。
「ストマから出ていた便が出なくなった。かわりに、奥で閉じたはずの膣から便が出ている。」と。
とうとう恐れていたことが起こった。病気は確実に進行していたのである。
続きます。