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:名も無き被検体774号+ 2012/06/07(木) 15:13:46.70 ID:LUqPOmqkP
文化祭当日。私達の公演は14時から。
一曲限定と条件を提示してしまったが為にトリを持たされるという事を、私はその日の朝に初めて知らされた。
友人達は恋人とデート状態だったので、ただ一人何もする事が無い私は適当にその辺を見回ると、喧騒から逃げるように屋上に向かった。
やっぱり引き受けるんじゃなかった…
激しく後悔しつつ屋上のベンチに座り2時間くらいボーっとしていると、堺先生からのメールが鳴った。
「高校に着きました。今、どこにいますか?」
単純に歌を見に来るだけだと思っていた私はあまりに早い到着に驚いて、呆けていた頭も一瞬で吹っ飛んだ。
「何もする事が無くて、B棟の屋上に居ます。」
久しぶりに会えるドキドキと恥ずかしさで一人ソワソワしていると、返事を返してから15分くらいで、先生は屋上に現れた。
私に気がついた先生は、ニコニコしながら懐かしそうにこちらに歩いてくる。
昔と何も変わらないその姿を見て、心臓がドクンとなった。
「お久しぶりです、元気でしたか?」
「先生こそ、元気でしたか?」
自然と笑みがこぼれる。
「色々あったけど元気ですよ。…渚さんは変わりましたね、見違えましたよ。」
「先生はあまり変わりませんね。」
見違えたという言葉に不思議な心地良さを感じながら、数年ぶりの先生の柔らかい声に身も心もトロけていた。
先生も同じように、私の隣にチョコンと座る。
昔とは何かが違う心地良い沈黙の後で、今度は私から話しかけた。
「…先生って大変ですね。数年であっちに行ったりこっちに行ったり。」
私がしんみりそう言うと、先生はフフっと笑いながら小さくフルフルと首を振った。
「そうでもないですよ。元々引越し好きなんで、丁度いいです。」
「引越しが好きとか、変わってますね。」
私が笑うと、先生はちょっと照れた様に頭をかいた。
「よく言われます。でもどんなに快適な部屋に住んでいても、またすぐ引っ越したくなっちゃうんですよ。」
「ずっと同じところに居るのが苦手なんですか?」
「いや、そういう訳じゃ無いんですけど、部屋が変わると気分が変わるというかなんというか…」
「模様替えのようなもの?」
「そうですね、多分そういう感覚なんだと思います。」
引越しが好き…という事は、またすぐ違う所に行ってしまうのだろうか…
「じゃあまたすぐ、他の学校に移動したりするんですか?」
「いや、僕が好きなのはあくまで部屋を変えるって事ですから。」
「そうなんですか。」
「です。自分の好きな地域の中で、部屋だけを変えるんです。今回戻ってきたのも、自分から希望出したんですよ。ここが好きだから。」
先生はニコっと笑った。
ここが好き、自分から希望を出した…
別に私に会いたくてなんて言われてもいないのに、何故だかその様な事を言われた感じがして、また心臓がドキッとした。
ハッと気がついて時計をみると、もう13時半。
先生に会えて浮かれていた私は、本番前の最後の音合わせをすっかり忘れていたのだ。
「今の、渚さん呼び出してましたよね?」
先生は驚いて私を見た。
「……最後のリハーサル忘れてました。」
先生は珍しく大きな声で笑うと、早く行きなさいと私の肩をポンと叩いた。
「ごめんなさい、行ってきます。」
「はい、ではまた後で。」
呼び出された恥ずかしさと、先生に触れられたドキドキで耳が熱くなっているのを感じながら、私は急いで職員室へと向かった。
スタンバイの為に会場に向かう。
会場となっているのは来賓玄関前のだだっ広い玄関ホール。
その場所は3階まで大きな吹き抜けになっていて、そこでストリートライブ形式で行われる予定だった。
14時になり公演スタート。
最初こそまばらだった観客達は、一年生の数名が歌い終える頃には相当な数になっていた。
ここまで観客が増える事を予想していなかった私は、やっぱりまた激しく後悔していたのであった。
あと一人で自分の番となった時、私は初めて知り合いを探して観客達の顔を見渡した。
一番前に友人達数名。その少し後ろに友人達の家族がチラホラ。が、先生の姿はない。
あれ?っと思って上に目をやると、先生は2階からこちらを眺めていた。
ちょうど歌うときに立つ場所の真正面。
なんでよりによってソコなんだ…しっかり見えちゃうじゃないか…と心の中でツッコミを入れていると、すぐに自分の番は回ってきた。
私は観客達の顔を見ないようにしながら、緊張を抑える為に2.3回深呼吸をすると、準備OKの合図をした。
声の無いせーので、歌い始める。
歌いながら少し上に目線をやると、先生と目が合った。
いつもより少し真剣な顔で、でもやっぱりニコニコしながら先生は私をじっと見ていた。
途端に頭が真っ白になって目が離せなくなる。
甘酸っぱくて恥ずかしかった歌詞は、いつのまにか私の気持ちと同調して、気がつくとただ淡々と先生にだけ聞かせているかのように歌っていた。
歌い終わりホッと一息深呼吸して一礼すると、シーンとしていた会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
途端に我に返って恥ずかしくなり、私は逃げるように早足でその場から立ち去った。
真っ赤な顔で一目散に屋上を目指す。
無意識に先生だけ見て歌っていた事が凄く恥ずかしく、なんであんな事になっちゃったんだろうと後悔で自分を責めた。
屋上について携帯を開くと、友人達からメールが来ていた。
良かったよ~凄かったよ~周りの人も褒めてたよ~というお褒めの言葉に少しだけ嬉しくなってニヤニヤしていると、渚さんっと堺先生の声がした。
「やっぱりここにいた。」
ニコニコしている先生と目が合うと、また私の顔はカーっと熱くなった。
「凄かった。他の子達には悪いけれど、ずば抜けて一番上手でしたよ。」
先生はニコニコしながら言う。
私はブンブンと首を振った。
「そんな事無いです、私はそんなに上手じゃないです。」
恥ずかしさに下を向く。
何だか気持ちが高揚しすぎて、なぜか自然に目が潤んでしまう。
耳まで真っ赤にした私の様子にハハっと笑うと、先生は私の頭をポンポンと撫でた。
「恥ずかしがらないで、自信を持って。」
聞き覚えのある懐かしい言葉に一瞬だけ間を置いて、私は思わずクスっと吹き出した。
「先生、前もそういってくれましたね。」
「そうでしたっけ?」
目が合うと、なぜか私達はアハハと笑い合った。
いつもと変わらない先生の様子に、いつの間にか私の心は落ち着きを取り戻していた。
「さて、それじゃそろそろ僕は帰りますね。」
「はい、今日はどうもありがとうございました。」
「じゃあまた。」
先生が小さく手を振って背を向ける。
中学2年の頃に止まってしまった時間が、また動き出す音がした。
今日はこんな事があったよ。とかありきたりな内容だったけれども、一日の終わりに毎日メールするのが当たり前になっていた。
私は人生で2度目の、充実した穏やかな毎日を過ごしていた。
が、しかしその平和が脅かされる日は、突然にやってくる。
冬休みが始まった日。
終業式を終えて家に帰ると、普段から滅多に帰って来る事のなかった母が、台所で鼻歌まじりにご飯の用意をしていた。
ビックリしてどうしたの?と聞くと、母は満面の笑みで私を抱きしめるとこう言った。
「なぎ~、私ね~再婚する事にしたの~♪**さんっていってね~凄く優しいのよ~♪今日から一緒にココで暮らすからよろしくね~♪」
あんまり突然の告白で面食らっていると、母はまた鼻歌を歌いながら調理に戻った。
「ちょ、どういうこと!?なんでそんな事になったの!?」
呆けている場合じゃないと、焦って聞き返す。
「どうこうもないわよ~♪赤ちゃんが出来たからね、一緒に暮らすのよ~♪もうすぐ弟か妹が生まれるの~♪なぎも嬉しいでしょ?♪」
「赤ちゃん!?」
「そうよ~♪おめでたいのよ~♪**さんももうすぐ帰ってくるからね~、仲良くしてね~♪」
まるで宇宙人と話しているみたいだった。
突然相談もなく勝手に決められても困ると話しても、なんで~?どうして~?としか母は言わない。
話にならない…
そう諦めて自室に戻ると、言いようの無い疲れがどっと押し寄せて、私はしばらく何も考えられずにベッドに突っ伏しているしかなかった。
母から呼ばれてリビングに行くと、母の言っていた**さんという人は、もう食卓についていた。
いつの間にか眠っていたらしい私は、その男が家に来たこともまったく気がついていなかったのだ。
「なぎ~、この人が**さん♪かっこいいパパが出来てよかったね~♪」
母は目の中にハートマークを浮かべながら、一度も私を見ることなくそう言った。
お世辞にもかっこいいとは言えない23.4位の、やたらとガタイのいい…今風にいうと明らかにDQNな男は、私を上から下までギロリとした目つきでゆっ
くり眺めると、
「…………よろしく。」
と、無愛想に挨拶をした。
「………」
私は無言で頷いた。
地獄のような日々が始まった瞬間だった。
ほへ?
地獄ってえええええ
支えてきた…とはいいつつも、
家は母の父母から相続した古いながらも一軒家だったので、実質かかっているお金は大したことは無かったらしい。
私が中学生になった頃には、週に1.2回帰ってきて、当面の生活費を無造作にテーブルに置いてはまた出て行く…という生活を送っていた。
どうせ男のところにでも行っているのだろう…薄々はそう感じていたが、まさか急に再婚などと言われるとは思ってもいなかった。
男を紹介された次の日。
男が日中仕事に出かけたのを見計らうと、私は籍を入れるつもりなら構わないが、男と養子縁組をすることだけは絶対に嫌だと母に抗議をした。
名字が変わるのが嫌だった訳じゃなく、ただ単純にあの薄気味悪い男の名字を名乗る事も、戸籍に入る事も嫌だったからだ。
私が一気にまくし立てると、母はニヤニヤしながらあっそう?じゃあそうするわ♪とだけ言った。
家庭環境は変わったが、それからも先生とは何も変わらずに、普通にメールをしていた。
もっと早く相談していれば良かったのだが、その当時の私は自分の汚い家庭環境を見られるのが何よりも嫌で、何も変わりない素振りをしていたのだった。
早いものでもう春休みに入っていた。
母はどこかに出かけ、私はバイトが休み。男も休みだったみたいで、朝からずーっと家に居た。
いつもは朝起きるとリビングに行き、軽く朝食を摂りながらテレビを見たりして過ごすのだが、その日は朝から男が家に居た為、私はずっと部屋に閉じこ
もっていた。
その日に限って友達がつかまらず、部屋で何もする事もなくボーっとしていると、不思議と睡魔が襲ってくる。
ベットにつっぷしていると、私はいつの間にか寝入ってしまっていた。
眠ってからどれ位か経った時、私は体に感じる違和感で薄っすらと目を覚ました。
「…?」
…誰かが私の体を撫で回している。
恐怖と混乱が、私を襲った。
「ハァ…ハァハァ…」
気味の悪い息遣いだけが、かすかに聞こえてくる。
瞬間、あの男が私の背面を触れるか触れないか位の手付きで弄っているのだ、と気がついた。
恐怖と気持ち悪さで、すぐにでもその場を飛び出したかった。
しかし、当時の私は何故か、寝たふりをしなきゃいけない!と咄嗟に思い込んだ。
ただ漠然と、起きてるとわかったら大変な事になる…そういう考えしか浮かんでこなかったのだ。
嫌悪感を必死に堪え、ひたすら寝たフリをしてやり過ごす。
あまりの吐き気に限界を迎えた頃、玄関から母が帰ってきた声がした。
すると、男の手は一瞬ビクっとし、物音を立てないように静かに部屋から出て行った。
私は例え様のない感情を抑えることができず、必死に声を押し殺して泣いた。
私はあの事件があって以来、夜家で眠ることが無くなっていた。
正確には、家で一夜を過ごすという事が出来なくなっていた。
学校やバイト、友達との約束が終わると、お風呂と必要最低限の荷物だけを取りに帰って、夜間は体を休められそうな場所を見つけてはジッと座って朝
まで過ごした。
友人達の家にも泊めてもらった事もあったが、やはり迷惑になる事を考えると、次もまた甘えるということは出来なかった。
余りにも田舎だったため、夜9時を過ぎた頃には外に人出は無くなり、おまわりさんが見回りをするということも無かった。
私は噂にならないように必死に身を潜めて、毎日ジッと耐え続けた。
先生との毎日続けていたメールも、いつのまにか2.3日に一回返事を返す位になってしまっていた。
心がボロボロになっていくウチに、何故か先生に迷惑がかかるような気がして、不本意に返事を減らしていたのだった。
表向きには何事もなく過ごし、一歩裏に帰るとそんな生活を送っているという心労は、並大抵のものじゃなかった。
そんな生活をひと月ほど送ったある日、それでも体力には限界がやってくる。
その日のバイトを終えた午後8時頃。
いつものようにネグラを探していると、クラクラと立ちくらみがする。
気合を入れて歩こうとはするのだが、体にまったく力が入らない。
私は限界を感じ、半ば無意識に家に帰ると、即自室のベッドに潜り込んだ。
ただ、多分そんなに時間がたたないうちに、あの男は部屋にやってきた。
体を這い回る手の動きで目が覚める。
私はまた、猛烈な嫌悪感に襲われた。
そうか、今日もやっぱり母は居なかったんだな…
半ば考えるのを拒否し始めた頭で、ボーっとそんな事を考える。
母はお腹が大きいのにもかかわらず、相変わらず週に何日かはスナックにバイトに行っていた。
このまま私が我慢をすれば、とりあえず休めるのかな…
覚悟を決めかけたその時、男の手は私の服の中に滑り込んできた。
その瞬間、一瞬だけ先生の顔が頭をよぎる。
「いやあああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
実際にはこんな女らしい叫び声じゃなく、もっと獣に近いものだったかもしれない。
私は男を蹴るように突き飛ばした。
一瞬だけ男の体が離れる。
怒りと興奮で頭はクラクラする。
息を荒げたまま起き上がろうとすると、男はニヤっと笑ってまた私に襲い掛かった。
どのように体をジタバタさせたか解らない。
ただ、私の服を剥ぎ取ろうとする男の手を、必死で引き剥がそうとしていたのだけは覚えている。
ひたすら男の体を蹴り上げていた私の足が何発目かでようやくクリーンヒットし、男は小さく呻きながらかがみこんだ。
今しかない…!
私は机においてあったカバンを手にすると、一目散に家から飛び出した。
とにかく必死で走って、近所にあった当時はもう使われていない病院跡地に、身を隠した。
どうして私がこんな目に…
どうして私の親はあんななんだ…
どうして…どうして…
もう頭の中は、どうして?しか浮かんでこなかった。
一通りどうして問答をした後、ぼーっとした頭でカバンをまさぐり携帯電話を取る。
「せんせいたすけて」
私はほぼ無心で、堺先生にメールを送った。
メールを送った瞬間、涙が溢れてくる。
携帯を握り締めながら泣いていると、先生からの返事はすぐに返ってきた。
「どうしました?」
文字なのに話しかけられているような気がして、私はまた息が詰まった。
「もうやだ」
呼吸にならない呼吸のせいで、私はその一文しか送れなかった。
深呼吸を繰り返していると、またすぐ携帯が鳴る。
「090-・・・・・・」
本文には携帯番号らしき数字だけが綴られていた。
私は止め方のわからない深呼吸を繰り返しながら、その番号を押した。
ワンコールも鳴らないうちに、先生は電話に出た。
受話器の向こうから、先生の声がする。
「せんせい…」
「どうしたの?なにがあったの?」
「せんせい…………」
涙が溢れて、上手く言葉がつなげない。
「わかった、落ち着いて……今家にいるの?」
「…家にいない…そとにいる」
「外ってどこ?一人で居るの?」
「**病院の…所で……うん、ひとり」
「**病院にいるのね?」
「…うん…」
「わかった、今から行くから絶対にそこで待ってて。いい?わかった?絶対に動かないでそこで待ってて!」
先生はそういうと電話を切った。
呼吸こそ乱れていたものの、涙は止まり、私はその場に座り込んだままぼーっとしていた。
風や草の音に耳を傾け、何も考えられずに座っていると、車の音が徐々に近づいてくる。
近くで停まったな…と思っていると、また携帯が鳴った。
「もしもし?今**病院に着いたんだけど、どこにいるの?」
先生の声だ。
「…病院の影にいます」
「影…?……今、僕が見える?」
身を乗り出して病院の正面入り口辺りを見ると、堺先生がキョロキョロしながら立っていた。
「…見えます」
「よかった。じゃあこっちに出てこれるかな?」
私は携帯を耳に当てながら一生懸命立ち上がると、フラフラしながら先生の方に歩いていった。
私に気が付いた先生が、凄く驚いているのがわかった。
家から一目散に逃げた私の恰好は、引っ張られてヨレヨレになり所々破れたTシャツに、砂だらけになった短パン。
その上ハダシで頭はボサボサ。
薄明かりの下の私は、幽霊の様だったことだろう。
先生はヨロヨロ歩く私に駆け寄ると、さっと肩を支えた。
そして次の瞬間、フワッとした感覚があったと思うと、私は先生に俗にいうお姫様抱っこをされていた。
先生は、完全に脱力した状態の私を器用に車の後部座席に乗せると、
「狭いけど、ちょっとだけ我慢してね」
と、車を走らせた。
泣き疲れたからか、それとも先生に会えた安心感からか、私は横になりながらウトウトしていた。
声をかけられて、小さくハイと返事をする。
気がついたら車は停まっていた。
「ちょっと待っててね。」
そう言って先生は車から降りた。
ここはどこなんだろう…横になったままボーっと考えていると、先生が後部座席のドアを開けた。
「起き上がれる?」
小さく頷いて起き上がった私の体を少しだけ引っ張ると、先生はヨイショっと言い、また私を抱っこした。
乱暴に体でドアを閉める音がする。
見慣れない場所に目を凝らすと、目の前に小さなマンションが見えた。
どうやらココは、このマンションの駐車場だったらしい。
先生は一階の一室の扉を空け、私を玄関に座らせると、玄関の鍵をそーっと閉めた。
「…鍵…」
先生がボソッと呟いたのが聞こえて、私は首をかしげた。
「…家の鍵閉めないで、出てっちゃってたみたい…」
先生が恥ずかしそうに頭をポリポリかいたのを見て、私はようやく少しだけ笑った。
先生は一瞬だけ私をじっと見ると、何か焦ったようにそう言って、奥の部屋にバタバタと入っていった。
しばらくガタガタと物音がしていたかと思うと、手に何枚かの服を持って戻ってきた。
玄関横の引き戸を開ける。
「サイズ合わないと思うけど…とりあえず着替えておいで。」
そう言われて初めて、私は自分の恰好が凄い事になっているのに気がついた。
ボロボロになったTシャツから、お腹やブ*ジャーが覗いている。
私は恥ずかしくなって、慌てて腕で上半身を隠した。
「あぁ!ごめんなさい!俺、あっちにいますから!」
先生はまた慌てて奥の部屋に引っ込んで行った。
あれ?先生今、俺って言った?
少し驚きつつ、ヨロヨロしながら立ち上がると、私は開けられた引き戸の中に移動した。
物が異常に少ない、綺麗に整頓された洗面脱衣所だった。
先生に渡された服に着替える。
少し大きな長袖のTシャツに、少し長めのハーフパ*ツ。
何か少し不思議な気分になりながら、今まで来ていた洋服を畳むと、私は先生に声をかけた。
「あの…先生。」
廊下の奥、部屋を仕切る扉の向こうから、先生はハイと返事をした。
「足と…できれば、顔を洗いたいです…。」
「あぁ!そうですよね!…そっちに行っても大丈夫ですか?」
私がハイと返事を返すと、先生はそーっと扉を開けて入って来た。
何だかちょっと気まずそうに私の横をすり抜けると、タオルタオル…と小さく呟きながら洗面所の棚をあさる。
「一枚で足りますか?」
「はい?」
「タオル…」
「あぁ、はい大丈夫です、足ります。」
私が慌ててうなずくと、先生はニコッと笑って今度は浴室の扉をあける。
蛇口を捻ってしばらく手を流水にさらし、ウンっと小さくうなずくと、
「どうぞ」
と言って、廊下に戻った。
紳士ですなぁ
私が頷くと、先生はまたニコっとして奥の部屋に戻っていった。
浴室で足と顔を洗うと、頭がシャッキリしていく。
冷静になってくると、ここがどこだか実感が沸いて来る。
ここ、先生の家だ…
私は色々と恥ずかしくなり、何故か慌ててお湯を止めると、急いで足と顔を拭いた。
使ったタオルをさっき畳んだ服の上に置き、洗面所の端に移す。
スイッチを探して電気を消すと、何故かそーっと奥の部屋の扉の前に移動した。
どうしていいかわからず、ノックをする。
すぐに扉が開いて、先生がどうぞ…と部屋に招きいれた。
「お邪魔します…」
小さく言って部屋に入る。
広いリビングダイニング。
小さな座卓、少しだけ大きなテレビ、二人がけの黒くて背の低いソファと、部屋の端に電子ピアノ。
広さの割りに物が少なく、綺麗というよりはガラガラと言った方がわかり易い部屋だった。
「あ、そこに座って。」
促されるまま、ソファに座る。
先生も私を向くように床に座ると、そこからしばらくの沈黙が流れた。
「…それで…一体何があったんですか?」
先生がゆっくりと口を開いた。
私は黙ってうつむいた。
「…話せる範囲で構いませんから…」
そう言って先生はまっすぐ私を見た。
私は少しずつ、話し始めた。
春休みが始まってすぐ位の時、寝ていたところを男に体を弄られたこと。
それからは家で眠るのが怖くて、夜中は外で過ごしていたこと。
でも体調が悪くなり、仕方なく家に戻って眠っていると、男に襲われ、慌てて家を飛び出して来たこと。
気がついたら先生にメールを送っていたこと。
私はただ淡々と、どこか他人事の様に話をした。
話している間、先生は真剣な顔をして下を向き、眉間にシワを寄せながらうんうんと頷いていた。
私が話すのをやめると、ふたたび沈黙が訪れた。
空気が重苦しく、心臓が締め付けられるように痛くなっていく。
チラッと先生を見ると、今まで見たことのない無表情な顔で、ただ目だけは何かを睨みつける様にじーっと床を見つめていた。
いつもニコニコと穏やかな表情をしていた先生の顔とのギャップに、私の背筋は少しだけゾクっとした。
何だか怖くなって、私も下を向いた。
だんだんと、何故か自分が怒られているような、不思議な気分になってゆく。
色々な事が頭を駆け巡りまた涙目になっていると、先生が大きくフー…っと溜め息をついた。
ビクッと驚いて先生を見る。
ゆっくりとこちらを向いた先生は、私と目が合うと、いつものようにニコっと笑った。
「目…腫れちゃってますね。」
先生はそう言って立ち上がるとキッチンに行き、冷凍庫から氷を取り出して袋に入れ、小さなハンドタオルと一緒に持ってきた。
そして私の横に腰掛けると、不思議そうに見ている私の顔を優しく押さえ、目にそっと氷袋を当てた。
「…今から冷やして、効果あるかな?」
先生がちょっと困ったように笑いながら言う。
その途端、ムネにつかえていたドロドロとした感情が溢れだし、私は堪えきれずに声を押し殺して泣いた。
先生は私の背中をずっとさすりながら、もう大丈夫だから…と何度も何度も繰り返した。