結果私は父について行く事になった
祖母と母の悲鳴、父の「これでもか!」と言うような声が聞こえた
びっくりして3人がいる部屋に行ったら
「やめてー!」と叫びながら倒れこむ母に覆いかぶさる父とそれを止めようとしている祖母が居た
そして畳に広がる真っ赤な血だまり
父は包丁で母を何回も切りつけていた
私は部屋の入り口で声も出せず動けなかった
ただ見ていた
祖母は母に何か叫んでいたがよく聞きとれなかった
母は動かない
私が固まっていると父は私の横を抜けて
「ごめんな」と一言言って祖母の家を出て行った
その後ちょっと自分が何をしていたのか記憶があいまいになってるんだけど
誰が呼んだのか救急車が来て母は運ばれて行った
救急隊員の呼びかけに母はうめき声の様な返事をしていた
ここで(母は生きてる!)と思った気がする
顔や体に青いビニール袋のようなものを巻かれていたんだけど
なんなのかよくわからない
父を止めようとして手にケガをしていた祖母も一緒に救急車に乗り込んだ
私は救急車の音を聞いて心配して見に来てくれた仲の良い近所の人に預かられた
着替えなどを取りに一度家に帰ったら
電話に血がついていた
テーブルの上には父の好物の食べかけのお刺身と、飲みかけのビール
父が居るのかと思ったが誰もいなかった
近所の人の家に戻るとき
祖母宅にパトカーが来ていた
警察が家の中を色々調べているようだった
私はひとまず近所の人の家に泊まった
次の日祖母が病院から戻り母が運ばれた病院に一緒に行ったけど
顔や手を包帯で巻かれた母は会話ができる状態ではなかったが生きていた
凶器の包丁の写真なんかを見せられて
これは家で使っていたものかな?みたいな事から他にも色々聞かれた気がする
聞かれる時、警察の人以外は部屋に私1人だったので心細かった
あとで聞いたんだけど
父は祖母宅を出たあと自宅に戻って自分で警察と救急車を呼んだらしい
家の電話に血がついていたのはそのせい
それから警察が来るまでの間しばらく食べられなくなるからと
好物の刺身とビールを飲んで待っていた
離婚をしたくなくての犯行だったらしい
母は顔を中心に手や上半身を切られていた
手もそうだけど顔が特に酷い事になっていて
元に戻す手術が何回もあって長い間入院していた
母の入院中は私は祖母宅で暮らして
退院後また母と一緒に暮らした
今でも元気に暮らしている
父は刑期を終え出所した後私に会いたがった
私は最初は会うのが怖かったが
20年経った今では和解して交流がある
以上が私の人生最大の修羅場
もうすぐ2人目が産まれるので
厄落としもかねての吐き出しでした
まさしく修羅場としか言いようのない出来事だな。
お酒を飲んで野外で失禁してぶっ倒れていたところを運ばれて
アルコール依存症を治す病院に強制入院
それから断酒会やらなんやら通ってやめたみたいです
お母さんが一応無事だったからかな。
と、言っても私達は飛行機の距離に住んでいるので
たまの電話か年に1~2回母の家にいった時に軽く孫の顔を見せる程度ですが
当時からしばらく抱いていた父に対する恐怖は今はほぼありません
父が反省、更生してもう年も70歳をまわって
すっかり小さくなってしまったせいもあるかもしれないです
ただ父を好きかと言われると好きでは無いです
親だとは思っています
ちなみに母も父とたまに会っています
父は出所してから今も
母に慰謝料的な物をたまに渡しているみたいです
母が父を許したのかどうかはわかりませんが
家に来られると加齢臭が臭いとかタバコ臭いとか私に愚痴を言っています
私(子供)の存在があったので渋々交流しているようにも見えます
年月が色々な思いを薄くしたのかもしれません
あの日はお酒を飲んでからの犯行だったようです
姉や妹は今は何も言いません
祖母は死ぬまで会う事を嫌がっていました
兄と弟は今でも許していないようです
特に兄は
「自分もその離婚の話し合いの場に参加するべきだった、そうすれば母も助けられた」と
長い間後悔し母に謝り続けていました
子供達にとっては普通のお爺ちゃんとして存在していて欲しいので
父は仕事はちゃんとしていたようです
今思えばアル中になってお酒を飲んで暴れたりする事が
母が離婚を考えたの最大の理由だったのかなと思います
祖父も酒飲みだった為早死にし、祖母達は苦労したと言っていましたから
大した人だわ、>>193
とても会うなんて出来ない