少しずつ声が出るようになって行った。
小さい声で、かすれたりひっくり返ったり途切れたりしながら
十月か十一月くらいにおはよう、ありがとう、バイバイ等が言えるようになった。
何事もなく五年生の四月、小声だが敬語を使わないで会話が出来るようになった。
五月、おじいちゃんが心筋梗塞で亡くなって
おばあちゃんはアメリカの息子さんの所に行く事になった。
私の次の保護者を決める話し合いで、私の実父の名前が上がった。
父は三回目の結婚をし、妻と娘の三人暮らし。
父とその妻は、元々一緒に暮らしたかった、歓迎すると言ってくれて
引っ越しはスムーズに決まった。
ここで、私の母方の祖母が出て来た。
経済的な理由で私を引き取らないでいたが、彼女は私の父を憎んでいた。
父に渡すくらいなら自分が引き取ると、強引に私を連れ出した。
着替えとロウソクの科学だけ持って、馴染み始めたクラスに挨拶無しで引っ越した。
直接祖父母の家に向かわず、十日程児童養護施設に預けられた。
理由は知らない。この期間は学校には行かなかった。
施設には学校に行っていない子が他にもいて、短い間だったが仲良くなった。
私を入れて四人グループで固まっていた。
この後も時々手紙のやり取りをしていたけれど
十代後半から二十代前半で皆亡くなり、私だけ生きている。
母が最初の離婚をしてからAと再婚するまで、祖父母と母と私とで暮らしていた。
祖母は実父に良く似た私の顔が嫌いで、いつも不細工、駄目な顔と言っていた。
なので、あまり好きではなかった。
祖父で印象に残っているのは、手紙だ。
Aと暮らしていた時に何度か祖父から手紙を貰った。
内容はごく普通。季節の挨拶、元気か、不自由はしていないか、
勉強を頑張って健やかに過ごすように。
問題は文体。漢字てんこ盛りの容赦のない候文。
もう一度言わせて。小学校一年生に候文。
今なら相手選べやと反撃する。
当時はAを頼った。
Aは英語やドイツ語じゃなくて良かったと言いながら一緒に解析してくれた。
三通目くらいから一人で読めるようになったが、やっぱりあの手紙はおかしかったと思う。
五年生の五月に最後の転校。祖父母との生活が始まった。
祖父母は毎日くだらない事で怒鳴り合い、祖父は自室に引きこもり、祖母は私に当たった。
定規で叩かれ、煙草の火を押し付けられるのも辛かったが
一番嫌だったのはトイレ掃除用の雑巾で顔を拭かれたり、それを口に突っ込まれる事だった。
熱湯をかける真似、揚げ油をかける真似もされた。
重大な跡が残る事は何もされなかった。
私はまあまあ運が良くて、酷い虐待はなかった。お陰で今も後遺症が何もない。
祖母は決して汚い言葉を使わない人で、私を詰る時も
「あなたはあまり笑わない方が良いわよ。笑うと獣のように見えてしまうわ」
という感じだった。
何事もなかったかのように一緒に暮らし始めた。
祖母に詰られる標的が増えて負担が減ったが、母は家出を繰り返すようになった。
数日家にいても、予告なく数週間いなくなる。
母は、祖母と一緒にいるのが嫌だから帰らないのだと言っていた。
家出する前に別居すれば問題ないのに、と思った。
「まあ、また捨てられたの?」と言われるのが悔しかった。
そのまま中学生になった。中学を卒業したら、就職するつもりだった。
働いて、家から出たかった。ここで、私の成績が問題になった。
教師も祖父母も母も、この成績で中卒で就職させるのはもったいない。進学すべきだという。
私は母と交渉した。
母と二人でアパートを借りて、祖父母と別居する。その代わり、私は進学する。
家事は私が担当する。出来るだけ母に迷惑をかけない。
母は受け入れてくれた。
弾き語りの仕事は流行らなくなり、母は大型トラックの運転手になっていた。
(最初普通二種を取ってタクシーをやっていたが
客も同僚もホテルに誘って来るからと大型を取ってトラックにしたらしい)
私が中三の二学期から、母はアパートを借りて自活を始めた。
私は中学卒業後に母のアパートに引っ越した。
高校に入学してすぐは順調だった。
祖父母のいない生活は快適だった。
薬用リップを使うと
「まあ、色気付くのが早いのね」
ポニーテールにすると
「ああ、うなじを見せて誘うのね。でも、顔を見せたらがっかりされるかもしれないわ」
等という言葉を聞かないで良いって、幸せだと思った。
母とも上手くいっていた、と思う。
でも、母は次第に帰って来なくなった。
最初は本当に三日に一度は帰っていた。
すぐに五日に一度になり一週間に一度、半月に一度、一ヶ月に一度。
朝、私が通学の為に家を出る直前に帰って来て挨拶する。
「お帰りなさい、お仕事大変なの?お疲れ様」
「ただいま、今から学校?急がないと遅刻しちゃうよ。行ってらっしゃい」
「今日はゆっくり出来る?久し振りに夕飯一緒にどうかな?お母さんの好きな物作るよ」
「うーん、どうかな。考えとく」
私が帰宅すると、もういない。
授業料無料の特待生で私立高校に入ったので、無駄に遅刻も欠席も出来ない。
母と話したいと思っても、機会がなかった。
高校最初の夏休みは、一度も帰って来なかった。
私は一人でアパート暮らしを維持出来ないか、かなり足掻いた。
それなりのマンモス高校で、学年で十位以内の成績を保ちつつ
全ての生活費を稼ぐのは、どう計算しても無理だった。
バイ春をすれば、お金は入る。一時間五万~十万。
勇気がなかった。
母が置いて行った生活費は、すぐに底をついた。
夏休みの終わり
「こんなに何回も捨てられるなんて、余程いらない子なのねぇ。その顔では仕方がないわ」
と言われつつ、祖父母の家に出戻った。
この時、小三の夏休みくらいから
私を引き取ってくれていた家の「お嫁さん」がジサツした事を知った。
彼女はトイレに行こうとするとパニックになり、洩らしてしまう
というのを繰り返していたらしい。
笑顔の高速まばたきが忘れられなかったのかもしれない。
病室に簡易便器を置いて徐々に心を安定させ、家に外泊できるまでになった。
数年、入院生活しながら外泊を繰り返し、そろそろ退院で
その前の最後の外泊中に首を吊ったそうだ。
「皆に愛されたお嫁さん」と「不幸を振り撒く私」について、祖母が色々言っていた。
何度か謝罪の手紙を送ったが、返事は来なかった。
夏休み明けのテストでガクンと順位が落ちた。
三位か四位だったのが、一気に十位だったので、夏休み中に良くない仲間が出来たのかと
保護者込みで生徒指導の先生に呼び出された。
祖母は教師に鷹揚に頭を下げ
「引っ越しで環境が変わってしまったからだと思います。
これからは私がサポート致しますから大丈夫ですわ」と微笑んだ。
勿論帰宅後は
「顔も悪い、愛想も悪い、頭も悪いなんて、困るわ。だから捨てられてしまうのよ。
少しでも長所があれば良いのに、可哀想な子ね」と言われた。
翌日教師に
「上品なおばあ様だなぁ。あんな人に心配かけないようにしなさい」と言われた。
因みに、私は塾に行った事はない。
三位・四位の成績は、一日三十分(テスト前は一時間)の自宅学習で維持出来た。
瞬間記憶能力的な物はない。多分、記憶力はごく普通。
数学の公式とか、忘れる事が多かったくらい。勉強には、コツがあるからね。
進路希望は就職だったが、教師が強く進学を推して来た。学校の実績にもなるからと。
上品なおばあ様に金銭的負担をかけたくないから就職したいと言ったが
奨学金を利用すれば良いと言われた。
結局家から百キロ近く離れた大学に進学した。
大学入学を、こっそりAに報告した。Aとの養子縁組は解消されていたが
Aはまた一緒に暮らそうと言った。
私は、優しいAしか知らない。誘いは嬉しかった。
でも、893とは暮らせない、とはっきり断った。
Aは、分かっている、足を洗う準備を進めている、駄目だろうか、と言った。
私の結婚式で、花嫁の父としてバージンロードを歩くのが夢だと。
嬉しくて、涙が出た。
お願いします、本当はまたお父さんと呼びたいですと返した。
夏休み前に、Aの実弟からAが事故で亡くなったと連絡が来た。
歩道で転んで、車道に倒れ込んだそうだ。
本当に事故かもしれない。でも、もしかしたら、違うかもしれない。
893を辞めるのは、難しいだろうか。
ダイガシって、やっぱり幹部なのだろうか。
辞めるのが本当に死ぬ程難しいのなら、一緒に暮らしたいなんて言わなかったのに。
大学に入ってから、一度も祖父母の家に戻らなかった。
奨学金とアルバイトで全ての費用を賄い、国家公務員になった。
四年生の時、教授の論文発表を聴きに行った。
教授の一つ前の発表者の声を聴いて、私は恋に落ちた。
英語使用の発表で、教授より発音がスムーズで、柔らかい声だった。
発表終了後、私は彼に内容についての質問をしに行った。
英語が苦手なので、質疑応答の時に聞けなかったから、と。
勿論、論文より彼Bが目当てだった。
Bは見た目も私のドストライクだった。小柄で私との身長差は五cmくらい。
野球の古田敦也さんに山羊を混ぜて線を極限まで細くした感じの顔。
初夜の生活は、彼にしようと決めた。
きっちり仕留めた。
Bの両親に紹介されて数週間後、Bの父親に呼び出された。
私の素行調査をした、実家の祖母にも詳しく話を聞いた、Bと別れて欲しい。
そんなこと出来る訳がない。
確かに私の過去には瑕疵がある、でも現在の私には問題行動はなく
真面目な学生生活を送り、信用のある仕事についた。
これからも努力致しますから、認めて頂く訳には参りませんか?
B父は、手切れ金を持って来ていた。
「あなたがどんなに良いお嬢さんでも、過去は変わりません。
ご実家がいつ、どんな形で関わって来るか、予想出来ますか?
ここに五百万あります。奨学金返済の足しになるでしょう」
過去って、追いかけて来るものだったんだ、と思った。
お金は受け取らずに帰った。
Bは親に愛されているんだなと思った。
すぐにBから連絡が来た。
何年かかっても説得しよう、我慢出来なくなったら承諾無しで籍を入れよう、となった。
それからすぐ、Bが癌になった。手術で病巣は全て摘出された。半年も経たずに再発した。
再発した時、私は入籍を迫った。何かあった時、側にいる義務が欲しかった。
ごめんね、と言われた。君の戸籍を汚したくないと。
一緒に逝きたいと迫ったら、出会って初めてBが怒った。
Bは九ヶ月も頑張って、私が出張している間に逝った。
出張から帰ったその足で病院に行ったら、もう葬儀も済んでいるはずだと言われた。
Bの実家に行ったが、お墓の場所も教えて貰えなかった。
あなたはやっぱり疫病神だと言われた。
そうかも、と思った。
ある日、職場で立ち上がれなくなった。
四十度の発熱だった。全然気付かなくて、普通に仕事していた。
上司が病院に付き添ってくれて、念のため入院になった。
ぽっかりと時間が空いてしまった。
生きて行くのって辛いなぁと、初めて感じた。そして、私って結構余裕じゃんと思った。
人生の感想なんて余裕がないと考えられない。
そう思ったら、急に涙が出た。Bがいなくなって初めて泣いた。
Bが生きているうちに、ありがとうを言えば良かった。
置いて行かないでとしがみつくばかりで、Bの気持ちを考えなかった。
Bはいつもごめんねと謝っていた。最後に会った日も、そんな感じだった。
私は求めるばかりだった。
きゅうちゃんの時みたいに、無理矢理でも笑って、安心させるべきだった。
もうすぐ死ぬって分かっていたんだから。
病院のベッドで、号泣した。
同室の人が、大丈夫そんなに大した病気じゃないわよと慰めてくれた。
過労による体調不良との診断で、少し休暇を貰ったので、Aのお墓参りをした。
Aのお墓の前で、Bの分も手を合わせた。
二十代半ばで、Cと出会った。
マリンスポーツが趣味の、ちょっと見ないくらいのイケメン。
私の友人は、女優の○○にそっくりと言って騒いでいた。
私はほぼテレビを見ないので性格な名前は思い出せないが
「あなだりえ」か「はただりえ」みたいな名前だったと思う。
「りえ」じゃなくて「みえ」かも。
ちょっと見せて貰ったけど、凄く似ていた。
このCに滅茶苦茶口説かれ、根負けして付き合うようになった。
デートの度にプロポーズされた。
私はもう結婚する気がなかったので、のらりくらりとかわしていた。
ある日Cは、自分の味方を増やそうと思ったらしく
デート場所にいきなり自分の実家を選んだ。
え、それってどうなの?と思いつつ
どうしようもなくC実家に行き、そこで心からの歓迎を受けた。
C父は少し怒りっぽいが大声で笑う人。C母は明るく優しい美女だった。
Cとの結婚に反対されるどころか、いつでもOKと言われた。
私は母親が行方不明な事、戻ったら何らかのトラブルが予想される事、
以前結婚前提で付き合っていた男性の親に
素行調査の結果から結婚を反対された事を話した。
Aについては、なかった事にした。
調査が入ればバレるかもしれないが、この先A関連のトラブルはないと思ったから。
C父は一瞬も躊躇わずに「Cと結婚してやってくれ」と言った。
Cの事は、ちゃんと好き。でも、私は相手が誰でも結婚はしたくない。
結婚したいなら、別の人を選んで欲しい。
その場合、相手を探す前に教えてくれれば、私は一切文句は言わない。
Cは「私ちゃんだから結婚したいんだよ。結婚が目的じゃないんだよ」と言った。
傷ついている事がわかった。
悪い事したな、とは思ったけれど、はっきりしておいた方が良い。
「私ちゃん、妊娠したらどうするつもり?俺達、避妊してないよね」
「うーん、妊娠したら…結婚しようかなぁ」
「マジで?俺、頑張る」
私は実は、かなり妊娠しにくい方で、自然妊娠の確率は一応ゼロではないよ、という程度。
元々子供は好きではないし、丁度良い。
私にぴったりな体質だと思った。
結婚は、Cとしたくないのではなく、結婚願望が燃え尽きてしまっていた。
数ヵ月後、私はCとデキ婚した。
人間、やれば出来るんだなと思った。
今、結婚して二十数年。
何の覚悟もなく結婚して子供が生まれた。
避妊は一度もしていないが、妊娠は一度だけ。息子は奇跡の子だと思う。
Cと私はアラフィフにもなって、互いを私ちゃん、Cちゃんと呼ぶ。
おいしい物、楽しい事はシェアして、不満は出来る限り早目に吐き出すようにしている。
息子は国家公務員になった。
Cそっくりのキレイな顔立ちと、私譲りの少し華奢な体格。
彼は、自分が「出来ちゃった」子供だと知っている。
少々びっくりしていたけれど「あなたもやれば出来るかも」と囁いたらお茶吹いてた。
嘘みたいに平穏で幸せだと思う。
いつどんなどんでん返しが来るのか、正直怖くて仕方がない。
壊れる前に壊してしまいたいといつも思っている。
この気持ちは、機能不全家庭出身の人なら理解できると思う。Cはわからないらしい。
とりあえず、今、私は奥様です。
母のその後は…興味のある方はいないかと存知ますので、まとめておりません。
以上です。
冗長な話にお付き合い頂き、感謝致します。ありがとうございました。
と言うのは自分も男に追われてるから お母さんほどハードじゃないけどストーカーの男に
どこまで逃げればいいのか知りたい
あいつがタヒんでくれたらスッキリするのに
お母さん腕が良くて稼げる美人だったんだね
自分もそこまで天才じゃないけど、稼げる女だった ストーカーに道は断たれたけど
>ダイガシって、やっぱり幹部なのだろうか。
893のうち、博徒の親分を貸元という。
博打に使うお金を貸すから。
その貸元の代役を勤める立場の子分を代貸(ダイガシ)という。
893で言う若頭(ワカガシラ、ワカモノガシラ)に当たる、
子分の中でも筆頭・長男・跡継ぎになる立場の人。
年齢や勢力の強弱で必ずしも跡を継ぐわけではないけども、
少なくとも形式上はその組の中でナンバー2であり、次期組長。
立場的に辞めるのは難しいけど、それは引き止められるから。
代わりに跡を継ぎたい人はいっぱいいるし、殺されることはない。
(期待を裏切ったor二度と893に戻るなという意味で破門状・絶縁状を廻されてしまうことはある。)
なので事故か、まったく関係ないことで亡くなられたと思う。
よかったらお母さんのことも書いて欲しい
前回の投稿後、ロウソクの科学が世間で話題になって、凄く嬉しいです。
本当に良書なので、沢山の方に読んで頂きたいと思っています。
母のストーカー逃亡録はあまり詳しくないのですが
需要があるようならまとめさせていただきます。
ただ、あまり参考にはならないかと思います。
彼女はAを含め、計四人にストーカーされるようなセキュリティの甘い性格なので。
893の貸元と代貸のお話、勉強になりました。
あれは、事故だったのですね。
そう言っていただけるだけで、少し心が軽くなります。
Aは、本当は悪い人で、酷い事を沢山したんだろうと分かっています。
多分、きゅうちゃんの死にも無関係ではないでしょう。
でも、私の子供時代の楽しい時間にはどうしてもAが関わっていて
悲惨な最期だったと思うと胸が苦しくなるのです。
ありがとうございました。
……ただ、当時家族ぐるみでお付き合いしていたカシモトさんが
樫本さんや柏本さんではなかった可能性が急上昇していて、複雑な気持ちです。
名字も訛るんだなぁと思っていました。
カシモトさんの三男君に
「ひなちゃん大好き。十年したら結婚しようね」と言われて喜んでいました。
会う度に抱っこしてチューしてた。
親公認だったんですよ。誰か止めてくれれば良かったのに。
前回の自分の投稿を読み返して思ったのですが
祖母がとても嫌な人のように書かれていますね。
私にとっては本当に本当に嫌な人ですが
多分、一般的にはそんなに悪い人ではないのだと思います。
数年一緒に生活しましたが、後遺症の残るような怪我はしておりませんし
栄養失調にもなりませんでした。
彼女が私に辛くあたるのも、少々理不尽ですが、彼女なりの理由がありました。
私以外の孫達には、優しいおばあちゃんだったと思います。
「良い」だけの人も、「悪い」だけの人も、中々いないものですよね。
と言いつつ、私、祖母も母も、最期を看取りませんでした。
亡くなった知らせを受けても、悲しくなりませんでした。
黒い過去かもしれませんが、全く反省していません。