経済的には、表向きは何とも無いように振舞っていた。
特に子供には、財政が切迫していることを悟られぬように頑張った。
30歳になったばかりだったが、勤めから独立をして、25年のローンで土地を買い、小さいながらも家を建てた。
そのローンだけでも月に8万強、ボーナス時には40万弱の支払いが毎年発生する。
事業を起こしたばかりの初めの数年は、それでも幸先良いスタートを幸運にも切れたようなので、
息子を中高一貫校にも進学させてやれたし、母がずっと気にしていたお墓も購入できた。
しかし、妻の治療には、サラリーマンの平均月収くらいの額が平気で掛かってしまう。
前述のように保険が使えない。国保の制度で一番安く上げようとしても、それでも10万以上のお金が毎月治療費として出て行くことに。
それでも、自営業者になったのは、妻の治療費を払う為だったんだ、と自分を納得させながらの日々が続いた。
ふと足を止めようものなら、そのままヘナヘナとなってしまいそうな自分を奮い立たせることで精一杯だった。
気が付いたら、僕は糖尿になっていた。
因果関係もはっきりしないが、EDにもなっていた。
若いときの交通事故で、肝臓障害の残る僕は、自分が医者に行くことも侭ならなかった。
朝5時に起きて子供の弁当、そして父と妻と息子の朝食を作り、
洗濯と買い物、身体が痛む妻の身体をさすり、入浴介助をし、部屋の掃除の後、昼食を準備し、
昼食を取らせている間に夕食準備をし、その後仕事に出掛け帰ったら、
山のように積んである洗い物をし、妻の様子を見、会話をして自分が寝るのは
夜の2時を過ぎないことがなかった。
僕はそれでも、妻に生きがいを持ち続けて欲しかった。
続きます。
334です。
盆や彼岸、年末になれば、僕の家の墓と母の実家の墓(母の兄が当主なのに、世話をしないので母がしていた)、
加えて妻実家の墓と義母の実家の墓参りに僕は車を走らせた。父は、自分が入ることになる墓にすら、世話をしようとしない。
口癖のように、「ワシが生きた時代は、神も仏もなかった。信じられるのは自分だけ」と言う。
今では彼を、自己愛性人格障害者だ、と僕は認定している。その自己愛性人格で、僕の居ないあいだ孫に説いているらしいから堪ったものではない。
それでも、某テーマパークが好きな妻の笑顔を取り戻そうと、大型の休みのときには、車を関西から千葉にまで走らせたりした。
しかし、妻の鬱が頂点に達するのは時間の問題だった。僕は余りにも無力だった。
ある日妻が僕に云った。「化学療法を止める。治らない病気を苦しんでまで戦いたくない。QOLを上げることに協力して欲しい。」
つまり、彼女は、死を受け容れることにしたのだ。
彼女の発病から5年が経っていても、僕にはまだその心の準備が出来ていなかった。
続きます。
妻は通院治療を止めた。僕はせめて、「フローエッセンス」だけは飲んで欲しい」と頼んだ。
不味いハーブティーだが、それはしぶしぶ承諾してくれた。僕は毎日、それを煎じて作り、毎日それを飲んでもらった。
日常的には、今までと余り変わらぬように思った。脱毛した頭髪も復活し、妻はことのほか喜んだ。
そして抗癌剤の副作用から解き放たれた妻は、少しずつではあるが笑顔を取り戻すようになっていた。
そんな日々が一年ほど続いた。子供は医者になるべく勉学に勤しみ、成績もそれなりのものを持ち帰ったりしていた。ただ、家族と言う点での家事への協力は不十分だったが。
僕はこのまま、妻の病状が治癒まで行かずとも固定してくれれば、などという幻想に似た希望を持つようになっていた。
相変わらず毒を吐く父に対しても、特に何も出来ずにいた。スルー以外の余裕がなかったと言えば言い訳になるのかも知れないが。
そんな、今思えば根拠のない、甘い夢を見ていたときはすぐに終わりを迎えた。
そう、僕はその時点でもまだ、情けない話、覚悟すら出来ていなかったのである。
2008年を迎えた冬のある夜、妻が暗い顔で僕に告げた。
「ストマから出ていた便が出なくなった。かわりに、奥で閉じたはずの膣から便が出ている。」と。
とうとう恐れていたことが起こった。病気は確実に進行していたのである。
続きます。
ここからは、本当に辛い思い出を書くことになります。
もしかすると、キーを打つ手が鈍ることもきっとある、と思います。
そんな時もどうかご容赦を戴きたい、と思います。
あの表面上は平穏な日々が続くかもしれない、などという幻想は、
一瞬にして断ち切られることになった。
つまり、本来の出口でないところから便が出る、と言うことは、
腸が破れてしまっている、と言うこと、そして閉じた膣奥が開いてしまった、と言うことなのだから。
頻繁に腹痛を訴える妻は、それでも救急車を呼ぶことを拒んだ。
まるで押し問答のような日々、そう長くはなかったが、最後は余りの痛さに救急車を呼ぶ事を承諾してもらった。
「な、病院で痛みを取って貰おう。そうしたら、またきっと笑えるようになるよ。」
僕も息子も、半分泣きながらではあったが、妻を精一杯元気付けようと必死だった。
痛さの余りにショック状態の妻。平日の夜中の救急で指定された病院へ付き添う。
思えば、妻が自宅に戻ることは、それ以来もうなかったのである。
続きます。
妻が搬送されたときに着用していたTシャツなどは、病院での着衣に着替える為に、鋏などで裁断されたのだが、
僕は未だに、それらが捨てられずに居る。気持ちの悪い奴だ、と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、
どうしても出来ないのだ。
救急で搬送された病院で、落ち着いて眠りについた妻と処置室で一夜を明かし、
翌朝、以前化学療法を施してくれていた総合病院へと救急車で運ばれてゆく妻。
救急車には妻に付き添う息子が乗っている。
僕は、その救急車を見送るときに、付いて行くための自分の車に乗り込んだ瞬間、
溢れ出る涙を抑えることが出来なかった。声を上げて号泣した。何度も妻の名を呼んだ。
何も事態は変わらないのに。
妻の、延命ではなく、終末緩和医療が始まった。
とにかく優先するのは妻の苦痛を最大限に和らげること。
はるか昔に、妻と二人で、そのときを想定すらしていないときに二人で決めた約束事。
最期は、眠るように、と言うこと。
とうとうそのときがやってきたのだ。
それでも僕は、まだ覚悟なんてこれっぽっちも出来ていなかった。
ヘタレの極致、ですよね。
続きます。
ここはそのための場所だと思うし。
>>58も色々思うところはあるだろうが、ちっと辛抱しようや。
今日は、嫁の好きだった真澄で晩酌。
そろそろひやおろしがうまい季節だ。週末買ってこようと思う。
サゲ方も知らない僕の書き込みをお許し下さい。
この話ももう少しで終わります。
今日はもう事務所を出て、家事をしに帰らなければなりません。
さっきの書き込みの後、歳甲斐もなく泣いてしまっていました。
明日で終わりにします。
ですので、もう少し、ご辛抱を賜りたいと存じます。
おやすみなさい。
お疲れさん
「E-mail (省略可) :」の横の欄に半角英数でsageと入れるといいよ
煽る奴らは気にするな
お前さんの辛い気持ちをわかってる人はここには沢山いるぞ
なんでそうお前らはムキになるんだ?
面白い話や泣ける話が読めたら、それでいいだろ。
つまらん話なら読み飛ばせばいいだけの事。
「あれはネタだ、俺には解る」なんてみっともない事すんなよ。