夏休みはもうすぐ終わり。
先生は本を…と思ったが、その日は珍しくピアノの前に座ると、なにやら黒い点が一杯書いてある楽譜を広げた。
そのまま小一時間くらい何か弾いている後姿を眺めていると、先生はふいにこちらに振り返った。
首をかしげながら、イヤホンを外す。
「いつも、何聴いてるんですか?」
「え?」
私はMDプレーヤーを見た。
私には当時好きな映画があって、その劇中の曲をよく聴いていた。
その映画のサウンドトラックにはピアノ曲が数曲入っていて、私は特に好んでそれを聴いていた。
「**って映画の**って曲です。」
「ふーん……ちょっと聞かせて貰ってもいいかな?」
私は立ち上がって先生に近寄ると、イヤホンを渡した。
先生が耳に付けたのを見て、当時よく聴いていた曲に巻き戻すと、再生ボタンを押した。
先生はじーっと、丸々一曲分の時間くらい聴き入っていた。
曲が終わった頃にイヤホンを外すと、鍵盤の上に手を乗せる。
不思議に思っていると先生はその曲のサビのフレーズを、まったく同じように弾き始めた。
ビックリして質問すると、先生は指を止める事無くニコニコしながら言った。
「いいえ、初めて聴きました。素敵な曲ですね。」
「…初めて聴いたのに、弾けちゃうんですか………。」
私がそう言うと、先生は手を止めて少し恥ずかしそうに笑った。
「言ったでしょう?僕、ピアノは得意なんです。」
私はプッと吹き出した。
「……ピアノの曲、好きなんですか?」
「はい。」
「…じゃあ一緒に弾いてみます?」
先生はニコっと笑う。
私は慌てて首を振った。
「出来ません!私、ピアニカ以外の鍵盤には触った事ないです!」
「大丈夫。簡単ですよ。」
先生は立ち上がり、私をなかば無理やりピアノの椅子に座らせた。
そして隣に立つと、私のちょうどまん前辺りにある鍵盤を指差した。
「渚さんはここから右半分、好きな音を指一本で鳴らしてくれればいいです。そうですね……大体同じテンポで弾いてください。」
「は…ハイ。」
「あ、白い鍵盤だけでお願いしますね。」
私が頷くと、先生は「じゃあどうぞ。」と言った。
先生はそれに合わせて、左手で伴奏をつけた。
適当に押しているだけの筈なのに、ただの音が音楽になっていく。
私は何とも言えぬ感動で、背中がゾクゾクとした。
ある程度弾いた所で、私は鍵盤から指を下ろした。
感動にほころんだ顔で、先生を見る。
「ね??ほーら簡単。」
先生はニッコリと笑った。
「凄い、どうやったんですか?」
嬉々とした声で、先生に尋ねる。
「アハハ、内緒です。ただ、凄い事をしてるように見えても、ある程度弾ける人には簡単に出来るんですよ。」
私が「そうなんですか?」と聞くと、先生はニコニコしながら頷いた。
「だから将来同じ事をされて、悪い人に引っかからないように!」
先生は笑いながら言ったが、私はその言葉に少しだけムネが痛んだ。
私が頷くと、先生はキッチンに移動する。
私はそれを見て、ソファに戻った。
少しの間、なんともいえない心地良い空気が流れる。
先生が持ってきたコーヒーカップに口をつけると、私は質問をした。
「先生は何歳からピアノを始めたんですか?」
「うーん…3歳位かなぁ?気がついたらもう始めていたので、結構あいまいです。」
先生はカップを置くと、小さく笑った。
「母が厳しい人で、毎日何時間も弾かされていたんですよ。あの頃は凄く嫌だったけど、今となってはやっといて良かった!って思ってます。」
「先生のお母さんは、厳しい人だったんですか…」
私がそう言うと、先生はフッと悲しそうに、それでもニコニコしながら視線を落とした。
「……前に、少しだけ言った事がありましたよね。僕にも色々あったって。」
私は小さく頷いた。
先生は自分の半生を、ポツリポツリと語り始めた。
地元ではちょっと有名な名家で、先生はそこの二人兄弟の次男だった。
仕事と称してあまり帰って来ない父。
長男を溺愛して、自分には厳しく当たる母。
長男は何でも思い通りに生活し、先生は母に言われるがまま習い事漬け。
かといって愛情を感じる事は、何一つされなかった。
それどころか、逆に罵られている事の方が多かったらしい。
それでも自分もいつかは愛されると信じていた先生は、文句一つ言わず母に従い続けた。
そんな中、たまに帰ってきては自分をめいっぱい可愛がってくれる父親の事が、先生は大好きだったそうだ。
だが高校生になったある日、先生の父は交通事故で亡くなった。
父の遺言書を見ると、財産の半分は先生に、あとの半分は長男と母で折半をしろと書いてあった。
半分と言っても、家やその他のものを入れると、軽く億には届いていた。
それをみた兄と母は、当然怒り狂った。
財産は長男である兄に継がせるべき、と。
その頃にはこの家はおかしいと目を覚ましていた先生は、ある程度のお金さえ貰えれば自分は満足だからと遺産を放棄し、
手切れ金の様な形で元の半分の金額だけを受け取り、もう自分には一切関わって来ないようにと、念書を書かせた。
兄と母は喜んでそれを書くと、先生を家から追い出した。
元々出て行く気だった先生は、逆にこれ以上揉めなくて良かったと、ホッとしたそうだ。
それ以来、本当に何の接触もしてこず、先生は今、平和に暮らしているらしい。
先生は笑った。
私は何も言えなかった。
二人の間に不思議な空気が流れた。
「なんだかちょっと重い話に聞こえるかもしれないけれど、今となっては多分いい思い出です。だからそんなに難しい顔をしないで。」
「えっ?」
「眉間。すっごいシワ寄ってましたよ。」
先生はクスクス笑いながら、私のオデコを指差した。
ハッとして自分の眉間を触る。
先生はその様子を見て、今度は大きな声でアハハと笑った。
私は少し不貞腐れながら言い返す。
「先生こそ…そんな大変そうな話なのに、ニコニコしすぎです。」
「仕方ないです。この顔は産まれ付きなんですから。」
先生はわざとらしくニッコリして見せる。
その顔を見て、私も思わず笑ってしまった。
「……先生は、女性とお付き合いした事はあるんですか?」
「え!?」
突然の素っ頓狂な質問に、先生が大きく驚く。
「いや、その……先生は優しいし…背が高いし…ピアノ弾けるし…モテたのかなぁ?って…」
言葉ジリがだんだんと萎んで行く。
そんな私を見て、先生は少し困ったような顔をしながら答えた。
「………そう、見えますか?」
私はゆっくり頷いた。
「モテた…という記憶はありませんが……そういう風になった女性なら、何人かは居ましたよ。」
ムネがぎゅっと痛くなった。
でも「そういう風になった」という言葉が何かを濁しているような気がして、私は更に質問した。
「そういう風になったって言うのは…お付き合い自体はしていないという事ですか?」
「…そういう事になりますね。」
先生は苦笑いをした。
「…さぁ恋人になりましょう、という事は無かったです。物凄く曖昧な関係しか、経験した事がありません。」
「そうなんですか…」
何となくで聞いた事を、ちょっと後悔し始める。
先生は下を向いて少しだけ考え込むと、ハハっと小さく笑って話を続けた。
私は黙って聞いている。
「どこかに行ってしまうのは解っているから、何だか一線を引いてしまうんです。僕は弱虫なんで、自分が傷つくのは嫌なんですよ、怖いんです。きっ
とそんな気持ちが相手に伝わってしまうんでしょうね。気がついたらもう手が届かない場所に行っていた…っていう事ばかりでした。恋愛だけじゃなく
、他の事でも…。」
先生は気まずそうにアハハと笑った。
「…先生は…その人達の事が、好きだったんですか?」
「わかりません。」
私が小さく聞くと、先生は爽やかな声で即答した。
思わず先生をじっと見る。
「こんな人間が、優しい訳が無いです。」
先生はそう言うと、いつものようにニコっと微笑んだ。
その顔を見ていたら妙に心がざわついてきて、色々な思いが物凄い早さで頭の中を駆け巡っては、消えていった。
いつも穏やかに笑っている先生の顔がだんだんと、少し冷たい、哀しそうな笑顔に見えてくる。
笑顔の裏に隠れているであろう先生の本当の顔が、私には何も見えない。
ふと、先生の言葉を思い出す。
「誰からも必要とされた事があまり無かったので…」
その言葉の裏には、先生の様々な思いが込められていたのかもしれない…そう思った。
「…先生。」
「なんですか…?」
「……私は先生から離れません。」
何故だが気持ちが昂ぶって、私は思わず口に出していた。
「………私は先生が好きです。だから離れていったりなんてしません。」
先生は一瞬…本当に一瞬だけハッとした顔をした。
でもすぐにいつものニコニコ顔に戻って、大きくゆっくり、何かをかみ締めるように目を閉じる。
途端に後悔が襲ってきて、私は下を向いた。
自分でも、何でそんな事をこの場で言ってしまったのかが解らなかった。
いやに早い心臓の鼓動のせいで、体が自然と震えだす。
時間を戻せるなら、自分を引っぱたいて止めてやりたかった。
私の目にはいつの間にか、涙が溢れ出てきていた。
「……………僕は…ダメですよ。」
先生の穏やかな優しい声に、息が詰まった。
そう言った先生の、顔が見れない。
「……どうしてですか…?」
破れてしまいそうな喉の痛みを堪えながら、私はやっとで呟いた。
「……どうしても。」
「…答えに…なってません。」
「……僕の事を好きになったら、ダメです。」
泣き顔を見られないように、下を向いたまま聞き返した。
「…だからどうしてですか?」
先生の柔らかい溜め息が聞こえる。
「…どうしても、です。」
言いたい事、聞きたい事、山ほどあるはずなのに、私はそれを言葉に出来なくて黙り込んだ。
近くにいる先生が、とても遠くに感じる。
思い切って顔を上げて、私は先生を見つめた。
何故だか、目をそらしてはいけない気がした。
「……嫌です。」
「……ダメです。絶対にダメです。」
「嫌です。…無理です。」
「ダメです。」
「どうしてですか…」
「…ダメだからです……」
「答えになってません…!」
先生の顔が、だんだん苦しそうになっていく。
「…やめてください…」
「どうしてですか…!」
「やめて…」
「嫌です!」
「やめてお願いだから…」
押し問答を繰り返していると、もう笑顔は消えていた。
それどころか少し怯えた様な瞳で、苦しそうに私を見ている。
その事に気がついて、よく解らない痛みがムネをはしる。
それでも私は、何かを振り払うように首を振り続けた。
「嫌です私は先生が好きです!先生だって知ってた筈です!私はずっと…っ」
その瞬間、体がグイっと引っ張られる。
ふわっと先生の匂いがする。
私は先生の腕の中に居た。
「…お願いだから……」
グイグイと、それでも優しく締め付けてくる腕に応える様に、私は先生の背中に手を回した。
抱きしめられた温もりと、拒否されている切なさで、心と体が混乱する。
「…どうしてですか…ダメって言ったりこんなことしたり…」
何故だろう…涙が止まらない。
「……わからない……」
耳元で先生の、苦しそうに震えた声がした。
ムネが切りつけられているように痛んだ。
「……………だって俺は昔から知っていて……小さい頃から知っていて……………」
初めて聞くその声に、ムネが張り裂けそうになる。
「せんせい…?」
先生は私の声なんて聞こえていないかのように、苦しそうに何かを呟いていた。
「ねぇせんせぇ…」
私は泣きながら先生をギュッと抱きしめた。
「ダメなんだよこんなの絶対……ダメなんだよ…なのにどうして…」
そう言いながらも先生の腕は、ギュウギュウと私を締め付けてくる。
私はもう何も言えなくなり、ただひたすら先生に抱きついていた。
私は少し冷静になってきていて、先生はもう何も呟いていなかった。
時折、溜め息の様な深呼吸をする声だけが聞こえてくる。
少しでも体が離れてしまったら先生が消えてしまうような気がして、私はムネに顔を埋めた。
「…渚さん。」
「…はい。」
いつものように穏やかな、先生の声がする。
「……もう一緒には居られません。」
ムネがギュッと痛くなる。
でも、なんとなく予想通りだったその言葉に、私は黙って頷いた。
「…明日…家に帰ります。」
「…そうしなさい。」
今まで固く締め付けていた先生の腕が、私から離れた。
「…もう遅いです。寝ましょうか…。」
「…はい。」
先生の顔を見ない様に下を向いたまま、私は小さく頷いて、スーッと静かに寝室へと入っていった。
私は携帯で6時になったのを確認すると、やっとの事で体を起こし、自分の荷物をまとめ始めた。
結局、一睡も出来ていなかった。
少ない荷物をまとめ終え、服を着替える。
大きく一回深呼吸をしてから、私は扉をそーっと開けた。
ソファから少しだけはみ出している先生の頭が見えた。
物音を立てないように慎重に部屋から出ると、先生の方をチラッと見る。
うずくまる様に毛布を体に巻きつけて横になっている先生は、どうやら眠っているみたいだった。
何故だか少しホッとしつつ、静かに玄関に向かう。
靴を履いた私は小さな声で「お邪魔しました」と言うと、玄関の外にでた。
早朝の生温い風が、気持ち悪かった。
玄関の扉を開けると、ツンとお酒の臭いが鼻に付いた。
何だか嫌な予感がしながら、リビングに入る。
出て行った時のまま荒れ果てているその部屋で、母が横になってテレビを眺めていた。
酒瓶やビールの缶が、母の周りを取り囲んでいた。
「…お母さん。」
私が声をかけると、母はだるそうにこちらを見た。
そして声をかけたのが私だという事に気がつくと、ラリった様にニヤ〜っと笑ってフラフラしながら立ち上がる。
「なぎぃ〜〜♪」
母は倒れこむように私に抱きついた。
「なぎぃ〜おかえりぃ〜♪」
息がむせ返るように酒臭い。
「…なにしてるの?」
「なぎが帰ってこないからぁ〜テレビ見てたのお〜」
母はテレビの方を指差し、突然ギャハハと笑い始めた。
何がおかしいのか、まったくわからない。
私がそう聞くと、母はぐしゃっと顔を歪ませて今度は大声で泣き始めた。
「なぎぃい〜あんたはドコにも行かないよねぇ?行けないよねぇ?」
私にすがり付いて、泣きじゃくる。
母は壊れている……どこか他人事のように、私は思った。
「行かせないからねぇ…逃げようとしたら殺してやる…あんたを殺して私も死んでやるんだぁ」
何故かふと、昨日の先生の苦しそうな顔が頭をよぎる。
私の中で、何かがガラガラと崩れていく感じがした。
「…行かないよ……」
思っても無い事を口に出した。
私がそう言うと母はにっこりと微笑んで、私の体を今度は優しく抱きしめた。
私はもう、何も考えるのが嫌になってしまっていた。
先生とはあの日以来、連絡をしていない。
これから就職活動が本格的に忙しくなるからと、私はずっと続けてきたバイトを辞めた。
学校が終わると友達と出かけることも無く、ただ家で飲んだくれている母の世話だけをして過ごした。
毎日コロコロと機嫌が変わる母に翻弄されながら、それでも特に苦痛は感じずに、毎日が淡々と過ぎていった。
私の心は、あの日から何も感じなくなっていた。
高校最後の文化祭が終わった頃。
夏休み中に訪問した5社のうち2社から、その気があるなら席は空けて置くという、内定通知の様な連絡が届いた。
大手デパート内の飲食店と、中規模の一般企業。
私は内心、稼げればどちらでもいいや…という気持ちでその報告を聞いていた。
「まだまだ時間はあるから、ゆっくり考えて」という担任の言葉に従って、私はすぐに返事を返さなかった。
ただそんな中でも漠然と、私の人生は元に戻ったんだな……なんて考えたりしていた。
2学期の終業式の後、私は担任に呼び出された。
いつもの様に職員室ではなく、会議室に呼ばれた事を疑問に感じながら扉をノックする。
会議室に入ると、なにやら担任が険しい顔で座っていた。
「あの…何ですか?」
何か悪い事したっけな?…そう思いながら質問をする。
先生は私を椅子に座るよう促すと、より一層険しい顔で話し始めた。
「…内定が取り消しになった。2社ともだ。」
「え!?」
頭が真っ白になる。
愕然としてる私をチラリと見た先生は、大きく溜め息をついた。
書き溜めだろうけど、書いてて辛くなったりしてないか?だいじょぶ?
大丈夫ですよ。お気遣い、ありがとうございます。
内定取り消し…正確にはまだ正式に内定通知書が来ていた訳ではないが、本来ならもうすぐ2社から届くはずだった。
ところが先日、2社から内定通知書は送付できないと相次いで電話が掛かってきたそうだ。
1社だけならまだしも、立て続けにこんな連絡が入るのはおかしい。
そう思った担任は、担当者に掛け合ってみた。
すると2社とも、私の素行がかなり悪いという密告の様な電話が掛かってきたのだと、そう言った。
具体的にどういう事を言われたかまでは教えてもらえなかったが、とにかくそんな人物を採用する事は出来ない…そう言われたそうだ。
話し終えると担任は「すまない…」と悔しそうに言った。
私は呆けつつも、黙って頷いた。
帰り道で色々考える。
一体誰がそんな電話をしたんだろう?
友人?私を嫌いな誰か?…まったくわからない。
これから先…どう生きていけばいいんだろう…
ただ漠然とした不安を抱えながら、私は家の玄関を開けた。
「お母さん。」
母がかったるそうに「ん」と返事をする。
「…就職、ダメになった。」
母の後姿が一瞬固まる。
でもその次の瞬間には物凄く嬉しそうな笑顔で、バッとこちらに振り向いた。
「あ〜そお〜?残念だったねぇ〜困っちゃったね〜アハハハハ」
妙に上機嫌だ…何かがおかしい。
私はハッとして自室に駆け上がり、机の引き出しを開けた。
「………」
入れていた筈の、2社から渡された封筒と担当者の名刺は、綺麗に無くなっていた。
様々な点が繋がる様に、私の疑問が結ばっていく。
私は脱力していく体を引きずる様に、階段を降りた。
母は鼻歌を歌いながら、「なぁに?」と笑顔で返事をする。
「…何したの?私の部屋に勝手に入って、何をしたの?」
母が笑顔のまま固まる。
「机の引き出し開けたよね?中に入ってる物、どうしたの?何をしたの!!!」
私は思わず怒鳴りつけていた。
長いこと忘れていた怒りの感情が、ジワジワと沸いて来る。
母はしばらく目を右往左往させていたが、急に顔を歪ませ、何やら泣き叫びながら私にしがみついてきた。
「だってぇ!だってあの紙なんて書いてあったと思う!?」
「紙?」
「そうだよ!あの紙!!!!!!寮って書いてあったんだよぉ?寮って寮でしょぉおお!?」
意味が解らない。
「だったら何なのよ!!!」
「許さない!!!!ここを出て行くなんて許さない!!!!許さないんだからああああ!!!!!!」
血走った母の目が、私を睨みつけている。
スーッと怒りが抜けていく感じがした。
この人から逃れるなんて、私には出来ない事だったんだな……
悔しさと絶望で、私の思考はまた止まって行った。
3学期が始まり2月に入ると、3年生は徐々に登校日は少なくなっていく。
そんな中で周りの生徒達は、確実にある未来に目を輝かせ、キラキラしている。
私にはそれが眩し過ぎて、その数少ない登校日にも学校に行くことが少なくなっていった。
何も考えられず、何もやる気が起きず、私はいつの間にか笑うことも話すことも殆ど無くなっていた。
友人達は心配してくれていたが、でもそんな状態の私にどう接していいのか解らなかったらしい。
少しずつ少しずつ、私から離れていくのが解った。
私の人生はこれでいい。これでようやく元に戻ったんだ……
毎日毎日、ただひたすらそんな事を考えて暮らしていた。
久しぶりの学校から戻ると、玄関には男物の綺麗な革靴が置かれていた。
中から母の嬉しそうな話し声と、男の人の声がする。
いつの間に男引っ掛けたんだ…?
そう思いながらリビングに入る。
母はもの凄い笑顔で私を見た。
「なぎお帰り〜あ、この人ね、なぎを迎えに来たんだよ〜」
はぁ?っと思いながら男を見る。
私と歳がそう変わらなく見えるチャラい感じの男が、これまた物凄い笑顔で私に頭を下げた。
つられて私も小さく頭を下げる。
「あー娘さん!お母さんに似て美人ですねー!これならもう余裕でオッケーっすよ。」
母と男が楽しそうに笑った。
「…迎えって何?」
かったるく母に聞く。
「なぎのね、面接してくれるんだって〜だから今から一緒に行ってきて〜♪」
はぁ?っと声に出すと、すかさず男が会話に入ってくる。
「いや〜お母さんとは昔っからの知り合いでね、渚さん…でしたっけ?就職に失敗して困ってるって電話が来たもんだから。」
「そうそう〜電話したの〜♪」
「それならウチで働くのはどうかなぁ?って思って、ウチの店長に話してみたんっすよ。」
「そうそう〜♪そしたらね〜、じゃあ今日面接に来いって言ってくれたみたいで〜」
母と男は楽しそうに話を続ける。
「そうなんすよ。だから今から一緒に来て、面接受けてください。店長待ってますから。」
どうなっちゃうんだよ…
「…嫌です。」
私はキッパリ断った。
私がそう言うと、男はさっきまでの笑顔から一変、今度は物凄く険しい顔をした。
「…困るんすよねぇ来てくれないと。わざわざ店長まで待たせてますからねぇ。」
男がギロ/リとした目で、私と母を交互に見る。
母は焦った様に私に叫んだ。
「さっさと行って来ればいいの!早く用意して!」
行かなきゃ何だかエライ事になりそうだ…
私は諦めて頷いた。
直ぐに部屋に戻って制服から着替える。
下に戻るともうすでに男は消えていた。
「早く行って〜外の車で待ってるって〜」
私は母を無視して外に出ると、男が待っている車に乗った。