M君の部屋へ遊びに行くと、レンタル屋さんの袋があるのを発見した。
借りるより買う派の彼にしては珍しい。
何かオススメでも借りてきてくれたのかな?
「あ、それはちょっと」
袋に手を伸ばすと、私より先にM君が袋を押さえた。
「おやおや~?ひょっとして、肌色率の高い映画ですか~?」
中身は洋画のDVDだった。
実験的な演出が面白そうだったし、M君もまだ見てないとのことなので
一緒に見ようと言ってみたけど、彼はあまり乗り気じゃなかった。
「いーじゃん。たまには二人で落ち込もうぜいw」
と、押し切って見始めたんだけど。
M君の言ったとおり、ものすごく暗くて救いがない映画だった。
あらすじをかいつまむと、
ある村に逃げてきた正体不明の女を、村人たちがかくまう。
女は恩を感じ、村人たちのお手伝いをしながら、村にとけ込んでゆく。
でも、女がマフィアに追われているとわかってから
村人は女をかくまう代償をつり上げていき
やがて女は、男たちに体を弄ばれるまでに追い込まれる。
だけど、女を追っているマフィアとは、じつは彼女の父親だった。
父親に救い出された女は、迷ったすえに村人を全滅にしてしまう…
という話。
M君が無言で立ち上がってトイレに行った。
………………………。
………………………?
……………………あいつ、吐いてる!?
「どどどどど、どーしたの?ひょっとして、お昼に当たった!?」
その日の昼食は私が作ったので、ちょっと焦った。
「ごめん、違う…酔った…」
「あ、映像酔い?」
お酒は飲んでなかったし、前に映像酔いするって言ってたから、そっちかと思った。
でも、酔うような映像、どっかにあったっけ???
「映像じゃなくて………ストーリーがダメだった…」
「えっ、そんな………なにを繊細なことを!」
「俺が一番びっくりしてるよ…」
正解!
帰ろうか?と聞くと、まだいてほしい、と言われた。
そんなことを言うのも、珍しいことだった。
しかたないので、M君が回復するまで、なにが彼にダメージを与えたのかを考えていた。
暴力シーンはあったけど、そんな過激だったわけじゃない。
第一、M君は結構グロ耐性はあるほうだから、あれくらいで吐くわけないし…
私が悶々としているうちに復活したM君は
「口直しに他のものでも見るかー」と言いだした。
「え、ちょっと待って。
あの映画の、どこがそんなにダメだったの??」
「ん?別にダメだったわけじゃないよ。ちょっと疲れてたのかな。
さてどうしようか、これ返して、何か借りてこようか」
………ちょっと疲れてると、吐くのかおまえは。
またいつもの誤魔化しが始まったようだった。
全然違う話をし始めた彼に、置いてきぼりにされた気分になる。
何か理由があるのなら、教えてほしいな」
「何もないよ。びっくりさせてごめん。
でも、本当に大丈夫だから」
「………おまえが大丈夫でも、私が大丈夫じゃねーんだよバカヤロー」
「なんだかやけに食いつくね…カッコ悪いから、早く忘れてもらいたいんですが」
「M君は、なんだかやけに誤魔化すね。
それって、私には話せないってことなの?」
「うーん…別に、わざわざ話して聞かせるようなことじゃないんだよ」
「………いまM君、うぜえって思ってるでしょ」
「なんだそりゃ。思ってないよ」
「だけど、うざくしたくもなるんだよ」
「いや聞けよ。うざいなんて思ってませんって」
「だってM君はいつも、私にはなんにも話してくれないんだもん」
「……え」
だけど、こんなになんでもかんでも話してもらえないと
なんだか私はM君にとって、取るに足らない存在なんじゃ?
みたいな気がしてきちゃうんだよ」
「…そっか。
俺、自分のこと話すの、あんまり得意じゃないからな…
そんな気持ちにさせてるとは思わなかった、ごめん」
「ううん。
話してもらっても、私に何ができるわけじゃないから
エラそうなことは言えないんだけどさ」
「そんなことはないよ」
「まっ、ちょっとそんなわけで、鬱屈しちゃってただけだから
特にゲロった理由が聞きたいわけでもないのさw」
「………別に、話したくないってわけじゃないんだ。
ただ、どう話せばいいのかがわからなくてさ…」
「そうやって話さないでいるうちに、きっと本当に話せなくなっちゃうんだよ。
そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか
語ることのできない人間になっていることを発見した。やれやれ。」
「黙れ村上春樹。
わかった、この際だからちゃんと話すよ。
………俺、あの主人公の女のことを、昔の自分に重ねて見てたんだ」
あ、大事な話が始まる、と思った。
「うん?……疎遠になってるって聞いたよ」
突然始まった独白に、知らないふりをする後ろめたさがチクチクと。
「疎遠っていうか、ほぼ絶縁だね。
昔から家族とは全然相性が合わなくて
大人になってから、もう無理だと思って家を出たんだけどさ」
あ、そこはずいぶん豪快にはしょるんですね。
「やっぱり一応子どものころは、親に気に入られたくてさ。
それで、いろいろやってはみたんだよ。
そのころの自分が、村人に取り入るために必死に尽くすあの女と重なったんだ」
私にはあの主人公、そんなふうには見えなかったけどなあ。
「だからたぶん感情移入しすぎたんだろうな。
ラスト、女が村人を全滅させるシーンで、やめろ!って思ってさ。
そんなことしたら帰れなくなるだろ!って…
まだそんな気持ちが自分の中に残ってたってのが、ちょっとね。
自分でもびっくりするくらいショックだった」
自分から家族を見限ったつもりでいたのに、
まだ帰りたがってる自分を見つけちゃった、ってことか。
Sさんが言ってたとおりだ。
M君は無意識に、まだ親に認められたがってる。
自分から絶縁はしても、気持ちはまだ絶つことができていないんだ。
そしてそれは彼にとって、吐くほど拒絶したい気持ちだったってことだ。
「ごめん、喪子は家族と仲がいいから、こういう話は不愉快だろ?
この歳で家族がどうのって…カッコ悪いの通り越して、みっともないよなw」
「そんなことないよ、話してくれてありがとう。
でも…つらかったんだね、おうちのこと」
「まあ、全部俺が悪いんだけどね。
俺の反発であの人たちの家庭壊しちゃったんだから。
俺がいなければ、もっと平和で幸せな家だったんだよ」
ああ、本当だ。
O君が言ってたとおり、本当に全部自分が悪いってことになってるんだなあ…
その言葉は、まるでテンプレのようにスラスラと出てきた。
たぶん、自分の中でずっと繰り返しているんだろう。
いまさら帰りたがっても、もう手遅れなんだよ」
自分に言い聞かせているような言葉が、なんだか虚しかった。
いまさらって。手遅れって。
初めから、大人の都合で帰る場所を奪われてしまったんじゃないか。
「だから、こんな気持ちはなかったことにするしかないからさ。
………うん、やっぱり話せてすっきりしたかな。
聞いてくれてありがとう」
……………違うな。
せっかくM君が封印bオていた無意識bェはっきりと出bトきたのに
ここで、そんな結論で、終わりにさせちゃいけない。
そんなだったら、私、何のためにO君ちに行ったのかわからなくなる。
でも私は、Sさんみたいに上手く説明はできないし、O君みたいにビシッとも言えない。
「………あのさ、私いま、M君をハグしてあげようと思ってるんだけどさ」
「うん?」
「私がこれからハグするのは、今のM君じゃなくて、子どものころのM君だからね?」
「………はい?」
「は?え?なに?なんで突然?」
「あ~あ、こんなに痩せちゃって、まあ…」
「おい」
「………お父さんやお母さんに気に入られたくて、頑張ったんだねえ」
「ああ、そういうプレイなんだw」
「でもどうにもならなくて、辛かったねえ…」
「え、俺はばぶーとか言ってればいいのか?w」
「さっき、帰る場所がなくなるって思ったのは、そうやって頑張ってきたM君だよね?」
「いやちょっと…あのー喪子さん……?」
「今のまんまじゃ、辛いよねえ。諦めらんないよねえ」
「………………」
「その上、大人の自分にまでなかったことにされちゃったら、もっと報われないよねえ」
「………………はい、おしまい」
「ちょっと大袈裟に話しすぎたかなー。
別に、そんなに寂しい子ども時代だったわけじゃないよw
心配してくれたのは嬉しいけど
今日のことは気にしないで、もう忘れてよw」
そうか。
彼はいつもこうやって、自分の子ども時代をなかったことにしてきたのか。
涙ぐむでも怒るでもなく、いつものにこやかな顔のままでさ。
だからそれだけなら、私の勘繰りかも、となるだろうけど。
でもさー、映画見て吐くほど心が葛藤するなんて事態は
忘れてしまっていいはずはないよねえ。
メープルシロップの時と、この日と。
私はもう二回も、子ども時代のM君が消される現場に立ち合っている。
それなのに、私はあまりにも無力だった。
「人は人を変えることはできない」という言葉の意味を実感していた。
けれど、M君タイマーが発動される気配はちっともなくて
周りからは呆れ気味に「夫婦漫才か」と言われるような
バカップル的な楽しい付き合いを相変わらず続けていた。
M君とは、モラハラを仕掛けられるどころか喧嘩すらしたことがなくて
少なくとも私は、彼と一緒にいることで、不愉快な思いをしたことはなかった。
そんなふうに、私たちはとても仲が良いカップルだった。
だけど言ってしまえば、私たちはただ仲が良いだけのカップルだった。
男女としての行為はもちろんあったし、
私って大事にしてもらえてるなあ…と、キュンとすることもあった。
けれど私たちの関係には、決定的に欠けているものがあった。
M君は感情の中でも、喜怒哀楽の、怒と哀を一切表現しなかった。
イラッとしたり、ウルッとしたりってレベルですら、見たことがなかった。
なので、嬉しいとか楽しいばっかりじゃない部分で
本音でぶつかりあったり、相手の苦悩を受けとめたりするような機会が
私たちの間には全くなかったんだ。
負の感情をさらけ出すことを極端に避けるM君の生き癖は
私たちを「仲良し」止まりで固定し、それ以上の関係になることを拒んでいた。
そのことは知らず知らずのうちに私を焦らせていたのかもしれない。
私は自分の手で、M君タイマーの針を進めてしまうことになった。
私、結婚式って大好きなんですよ。
自分がどうのこうのではなくて、行事として好き。
綺麗な服着て美味しいもの食べて
みんなが幸せそうにしてる、あの晴れやかさがいいのね。
その日のお式も、とても温かい雰囲気のもので
数日後にM君と会ったとき、私はそのことを話した。
すっごくいいお式だった、私、結婚式大好き!
みたいに。
無神経だったかな、とは思う。
M君は、ちょっと困ったような顔をした。
「……喪子は、結婚したいの?」
「えっ!?
あっ、別にそういう意味で言ったわけじゃないから!」
いつもなら「ふうん、そっか」と引き下がるはずのM君が、この日は違った。
私、馬鹿だよねえ。
そう問われて、ドギマギしてたんだから。
「そりゃ、…興味はあるよ」
「俺、結婚願望ないんだよね」
間髪入れずに返された。
はあ…、左様でござるか。
「まあ私も、どうしてもってわけじゃないからな~」
「でも、したいと思ってるんでしょ?」
「うん、いつかはしてみたいね」
「ふうん、そっか」
やっとM君の「そっか」が出た、と思ったら。
「じゃあ、別れようか」
…………へっ!?
「だって結婚したいと思ってるのなら、結婚願望ない俺と付き合っててもしかたないでしょ」
「べつにM君とどうとかってつもりで言ったわけじゃないよ!?」
「俺とどうとか思ってないのなら、余計俺と付き合っててもしかたないよね」
なにその「はい論破」!?
正論なのに、全然納得できないよ!
M君に結婚願望ないからって、それが別れる理由にはならないよ!?」
「あのさ、こういうのって、需要と供給なんじゃないかな」
今度は経済用語ですか!?
「結婚願望のある人同士が付き合うのが、効率いいんじゃない?」
「私、効率いいか悪いかで人と付き合ってないもん!」
「だけどいずれは結婚したいのなら、結婚願望のない俺なんかとは別れて
他の男と付き合ったほうが喪子にとってはいいんじゃない?」
「結婚だけが付き合う理由じゃないよ!
そんなの、付き合った結果で結婚するかどうかじゃん!」
「だから、結婚願望のない俺じゃ、その結果がはじめから見えてるでしょ」
ぐはっ!
そうくるのか…
私が結婚したいと思ったら、そのとき考えればいいことで…」
「いずれしなくちゃならないなら、今してもいいんじゃないかな。
俺、自分のわがままに喪子を付き合わせることはできない」
「なによそれ………M君の言ってること、なんかおかしいよ」
「どこが?」
「だってさ…
私だってもういい歳だし、結婚話が出るのは自然じゃない。
でもM君は、自分に結婚願望ないことなんて、始めからわかってたでしょ?
なのに、どうして最初の時じゃなく、今なの?
しかもそれが私のためだって言うの?
全然意味わかんないよ、そんなの。
ひょっとして、これはあれ?
一年経つと別れたくなっちゃうっていうやつ?」
わかってもらえるかな?
それまでも無表情ではあったんだけど、なんていうか、
無表情って表情まで消えた感じだった。
正直言って、怖かった。
私、いまM君の地雷踏み抜いたんだってわかった。
「そうだね、最初に言っておいたよね、俺はこういうことするって。
でも、それでもいいって言ったのは、喪子だよね?」
ん?どこかで聞いたな、このセリフ。
…………あー。
M君、それは言ったら駄目だよ。
それを言ったら、おしまいになっちゃうよ…
それ以外、なんにも思いつかなかった。
「そうだよ、私あのとき言ったもんね、これは私の選択だって。
だからM君は、なんにも悪くないもんね!」
こういうのも売り言葉に買い言葉って言うのかな。
私はとにかくその場から離れたくてしかたなかった。
初めて見るM君の冷たい態度が怖かったし、悲しかったし
それに最初の話からすれば、いま彼は、私を憎悪してるんだから。
……………どうして私が憎悪されなくちゃならないのかなあ……?
その瞬間、私の涙腺は信じられないほど大爆発した。
「なに!?どうしたの!」
「ぎゃーす!ぎゃーす!」
「なにがあったの!?どうしたの!?」
「ぎゃーす!ぎゃーす!」
「………あーあーまったく…
そんな子どものときみたいな顔して泣いてー」
何十年かぶりで母に抱きしめられた。
「うんうん、付き合ってれば色々あるよねえ」
「でも、もうだめだー!おわりだー!!!」
「うんうん、人の心は難しいよねえ。
でもお母さんは知ってるよ、喪子はとっても頑張ってたよ。
M君と付き合ってから、喪子はうんときれいになったよ」
三十女が、母親にしがみついて泣いた。
もうグロ注意って感じ。ほんとごめんなさい。
しかも一部親バカ発言も書いた。ほんとごめんなさい。
でも、母親って本当に偉大だよね。
そうされてると、たいしたこと言われたわけでもないのに落ち着いちゃうんだ。
さすがお母さん、私を産んだ人。
そしてM君は、この安心感を知らずに生きてきたんだなあ…。
私は二人に謝った。
せっかくあんなにアドバイスもらったのに、なにもできませんでした。ごめんなさい…
「そんなことがあったんですかー。
でもそれ、喪子さんは何にも悪くないですよねえ」
「そ、そうでしょうか…」
「喪子さん、あんなに気をつけてたのにMさんに乗せられちゃいましたね。
すごい、感心しちゃう。あざやかだなあ」
「そんなところに感心しないでくださいよお。
私はこれまでの彼女と違って、いろんなこと知ってたはずなのに…
一年のジンクス、破れなかったなあ…」
O君の声が、心なしか沈んでいる。
「だって、別れるしかないもん…」
「でも喧嘩して仲直りするって、男女の付き合いの基本じゃないか」
「だけど、普通の喧嘩じゃないんだよ?
私、いまM君から憎悪されてるんだから…」
「今回、あいつは自覚的に変わろうとしてたわけだし
いまごろ、やっちまった!ってなってるんじゃないかね?」
「でも、別れることで彼の不安は解消されるんでしょ?
だったら私、M君のために別れるよ……」
Sさんが、強い口調になった。
「別れるのなら、Mさんのためじゃなくて、自分のためになさい!」
「ふお!?」
「Mさんは、いつものMさんのセオリーどおりに動いています。
でも喪子さんが、それにあわせなきゃならない決まりなんてありません。
別れるなら別れるで、喪子さん自身が納得できる理由で別れればいいんです。
納得できない消化不良のまま別れてしまうと、その消化不良を解消しようとして
他の人と同じような恋愛を繰り返すことになっちゃいますよ?」
「だ、だめんずうぉーかー…」
「そういうことです。
喪子さんが、あんな顔だけの屁理屈男、もういいやってのならいいんですけど」
うわあ…Sさんにかかるとひどい言われようだな、M君。
悲しいし悔しいし、何より納得いかない…。
どうして私が憎悪されなきゃならないの?
別れるなら別れるで、こんな一方的な形じゃなくて
ちゃんと話し合って、二人で決めたいんです」
「だったら、その気持ちをMさんにぶつけてみたら?」
「でも…………怖いんです。
私、憎悪されちゃってるわけだし…
あんな冷たいM君には、もう会いたくないんです…」
「あー、それ…。
普段穏やかな人が急に機嫌悪くなったら
誰だってビビって、自分が悪いんだって思っちゃいますよねー」
「はい…」
「そうやって自分を悪者にしておけば
相手がどんなに理不尽でも、立ち向かわなくて済みますもんねー」
「あああああ………はい…」
「………あ~。」
「親は悪くない。自分が悪い。そういうことにしておきたいんです。
だって、親が悪いと気づいてしまうことは
親が自分を愛していないと気づいてしまうことになるから」
グサッときた。
ああ…。
言い換えれば、私がM君が悪いと気づいてしまうことは
M君が私を愛していないと気づいてしまうことになるのか…。
察してくれたのか、Sさんはちょっと優しい声になった。
「喪子さんに変わりたいと言ったMさんの気持ちは、嘘じゃないでしょう。
だけど、今回彼は、変わらないことを選んだ。
ただそれだけの話なんです。
だったら喪子さんだって、どうするかは自分で選んでいい。
Mさん基準で行動する必要はどこにもないですよ」
そうだ。
私はいつも、自分がM君に合わせるべきなんだと、どこかで思ってた。
だってM君は不幸な生い立ちなんだから。
だから私が我慢しなくちゃって、ずっと思ってた。
でもそれって、M君を見下してることにならないか………?
私はM君が可哀想だから好きになったんじゃない。
彼にはいいとこがいっぱいあって、私はそこを好きになったんだ。
その気持ちこそが私の原動力で、一番最初は生い立ちなんて関係なかったはず。
言いたいことは言っちゃわなきゃ気が済まないはずなのに
いつの間にか、私は自分の気持ちをどこかに置き去りにして、自分を誤魔化していたんだ。
M君のやり方に、いつの間にか倣っていた。
よし、戻ろう。
こんなの私じゃないや。
本来の私に戻ろう。
初めのころの目線の高さで、もう一度M君に向き合おう。
もう逃げないで全力でM君にぶつかろう。
もしこれで最後になっても、思い残すことのないように。
どこで会うかは結構悩んだ。
Sさんからさりげなく「できれば人の多い所がいいですよ」と忠告されていた。
それだけしか言われなかったけど、どういう意味かはわかった。
だからM君の部屋じゃだめだ。
かと言って、ファミレスやカフェでしたい話の内容じゃないし。
でも初の私の部屋で、別れ話するんじゃ私的にヘビーすぎる…
悩んだすえ、カラオケボックスを利用することにした。
個室だけど、外に出れば人はたくさんいる。
当日、M君を奥にして、私は入り口に近い方の席に座った。
そんなことを考えなくちゃならないのは悲しかったけど
でもつまり、そういうことなのだと痛感させられた。
まあ結果的には杞憂に終わったんだけど。
ああ、この人はこんなに弱い人だったんだなあ。
自分のしたことで、こんなにダメージ受けてしまうなんて。
相変わらず無表情のM君に、私から切り出した。
「このあいだはごめんね!
カッとして、言いたいことばっかり言っちゃった。
だけど、今日も言いたいこと全部言いたくて呼んだんだ。
ムカつかせたらごめん。でも、言う。
私、こないだのM君の言葉が本心だとは思えないんだ」
「どうしてそう思うの?」
M君は私のほうを見ない。テーブルだけを見つめていた。
ものすごいしゃべりにくくて、気持ちが萎えてくる。
これはいかーん!と思って、私は彼の手を見つめてしゃべることにした。
指だけが、叱られてる子どもみたいにそわそわ動いてたからね。
私にはあのときのM君が嘘をついてたとは思えないんだよ。
私、私を理由にして別れようとする、こないだのM君よりも
自分自身を理由にして、付き合いたいって言ってくれたM君のほうが信じられるんだ」
「言ったね、そんなこと。
でも、どっちの俺も俺だよ?」
「わかってるよ。だから困るんじゃないか。
私、べつにM君と別れたくなくてこんなこと言ってるわけじゃないんだよ。
今日でおしまいになる覚悟はちゃんとできてる。
だけどその前に、私はM君の本当の気持ちをちゃんと知りたいんだ」
「俺の気持ちは、こないだ言ったよね?」
「私のために別れるってやつ?
私、あんなのじゃ全然納得できないよ。
私が知りたいのはもっと単純なことなんだよ。
M君が、いま、私を好きなのか嫌いなのか。それだけ。
あれから散々考えたけど、私はやっぱりM君のこと大好きだよ」
いまさらですが。
私はそれまで、一度もM君から好きだと言われたことがありませんでした。
それに気づいたときはキツかったですわー。
本当に、ずーっと私の片思いだったんだなあ、と。
「うん、ショックだった。いっぱい泣いたさ」
「だったら、そんなやつとは別れたほうがいいだろ?」
「そんなねー、論破するようなこと言ったってねー、
私がM君を好きだって気持ちは、M君には変えられないよ?」
「だけど別れてもいいと思ってるんだろ?」
「そうだね。
私が付き合いたいのは、私のことを好きなM君だから。
M君が私のこと嫌いって言うのなら、しかたないよ、ここですっぱり別れよう。
だから、私はM君の気持ちを聞きたいんだよ。
私のこと好きなのか、嫌いなのか」
そのまま、M君は黙り込んだ。
私も黙ってM君の言葉を待った。
隣の部屋から、やけに上手な「冬のリヴィエラ」が聞こえてきた。
くそったれーと思った。
「………俺のわがままに、喪子を付き合わせるわけにはいかないから」
やっと出たM君の言葉はそれだった。
また、聞こえがいいだけのただの正論。
中身のない、空っぽな言葉だった。
「だけど俺のせいで、喪子の時間を奪ってしまうのは…俺には責任がとれない」
「私の人生の責任は、私がとります」
「だけどそれで、喪子の出会いのチャンスを潰してしまったら…」
「勝手な想像で勝手に私の将来潰さないでよ、ムカつくなー!」
M君はまた黙り込んだ。
相変わらずうつむいてたけど、口をパクパクさせてた。
なにか言おうとして言えないでいるみたいだった。
なんか酸欠の金魚みたい。
まるでそうしないと生きていけないみたいに口をパクパクさせて
M君は私に反論しようとしている。
なんだか、それを見ていたら、急に思ってもなかった言葉が出てきた。
もういい、十分だよ!M君はこれまで、本当によくやったよ!」
事前に考えておいて、言おうと思ってたことはまだまだあった。
でもこれを言ったら「言い尽くしたなー」と思えた。
私が我慢するとか、諦めるんじゃくてさ。
固まったように動かず、しゃべることもできないでいる彼を見ているうちに
これはもう、M君の変えようのない生き方なんだなあって、いきなり納得できた。
だったらそんな彼の人生に、皮肉でもなんでもなく、
せめて「天晴れ」と言ってあげたくなったんだ。
「…これで私の言いたいことはおしまいです。あとはM君次第だよ」
「…………ごめん、別れよう」
それがM君の答えだった。
「ごめん」
「えー、最後がごめんはやだなー。なんか他のこと言ってよw」
「…………ごめん」
あのとき変わりたいと私に言ったM君は、他でもない、自分に負けてしまった。
何よりも彼自身が、それを嫌というほど自覚している。
M君は、うつむいてると言うよりうなだれていた。
その姿にじわっと涙が出てきて、それを隠して荷物をまとめた。
マンガや映画だったらここで終わりなのにさー!
そこから二人で廊下歩いて行かなきゃならないんだよねー。
そのあとは、受付でお会計もしなくちゃならないのよ、現実は。
しかもカウンターで、よくあるあの儀式がはじまっちゃってさ。
「俺が」
「呼び出したんだから、私が」
「いいから」
「せめて割り勘で」
「ほんとにいいから」
「一緒にケーキ食べられなかったお詫び。ずっと気になってたから」
ケーキ?
私、今日ケーキ食べるなんて言ってないよね???
………………あーーーー。
涙腺が緩んで、私は小走りで店の外に出た。
他の食べ物はあんまりでも、ケーキだけには身を乗り出した。
だからよく、二人でケーキ買ったり作ったりして食べてたんだ。
でも、そうだ。
いちばん最初のケーキだけは、一緒に食べられなかったんだっけ…
なんでそんなこと、いま言うんだよう。
ずっと気にしてたなんて、馬鹿だなあ。
…でも、M君らしいや。
泣き顔は見られたくなかったんだ。
M君がどんな顔してたかはわからない。
視界が歪んでたからね。
バイバイ、M君。
終わったー、私の恋。
そうすることで気持ちに整理をつけたかった。
湿っぽいのはいやなので、「これは空元気だよ!」とか言いながら。
だけど、やっぱりSさんのときだけは、少し泣いてしまった。
「そのうちご飯食べにきてくださいね」
とだけSさんは言ってくれた。
でも積極的に行く気にはなれなかった。
だってSさんのダンナはM君の親友だから。
M君の気配のあるところには、しばらく近づきたくなかった。
私は落ち込んだ気持ちを引きずるでもなく、わりと普通にすごしていた。
最後に言いたいこと言えたせいか、後悔や未練はほとんどなかった。
そんなある日、部屋で優雅にスルメをしゃぶっていたら、携帯が鳴りだした。
んー?名前が表示されてないなあ
知らない人からの電話には出ませーん
なんかしつこいねー、頑張れー
…………………あはん!?
「もっ、もしもし!」
「もしもし、あのー、Mですが」
「どうしたの!?元気だった!?私は元気だよ!どうしたの!?元気!?私は元気!」
軽くパニクってましたすいません。
「そっか、ならよかった」
久々に聞けたM君の「そっか」が嬉しかった。
「大丈夫だよー」
スルメ食ってただけですから。
「えーと……ごめん、出てもらえないと思ってたんで、あせってるな」
独り言みたいにM君が言った。
「大丈夫だよー、落ち着くまで待つから」
「ごめん。えーと…あー、いまなにしてた?」
「それを聞くか!?」
「あ、ごめん」
なんか「ごめん」ばっかだなー。
あなたと別れてからはキレイでいようとしてたのに
どうして私、今日に限ってサンダル履き!?ってやつ」
「ああ、あったね」
「スルメ食ってました」
「スルメwwww」
あー、笑ったあ~。
スルメ、グッショブ。
「それで?突然どうしたの?」
「あのー………じつは伝えたいことがあって」
「えー、なに?」
「うん………それで電話したんだけど」
「えー、なになに?」
「ええと………じつは…さ…」
M君は電話の向こうで深呼吸してるみたいだった。
それを聞いてたら、私もドキドキしはじめた。
「うん」
「俺さ、俺………えー…あのー………ね」
「うん?」
「あれなんだよ、ええと……そのー……俺さ」
「うん」
「えーーーーー」
「うーーーー?」
「…………………ああ…やっぱだめだ話せない…」
「話したくないなら無理しないでいいじゃんw」
「話したくないわけじゃない。わざわざ電話したんだし…
ただ、頭ん中真っ白になっちゃって…なにも言葉が出てこない」
「どうぞ」
「たぶんいまM君は、私になにかを話しておかなきゃ!ってなってて、
それで緊張しちゃってるんでしょ?
でも私、たぶんM君が思ってる以上に、M君のこといろいろ知ってると思う。
今さらだけど謝っとくね。黙っててごめんなさい」
「ん?どういうこと?」
「ずっと内緒にしてたけど、付き合ってたころね、私O君にM君のこと相談してたんだ」
「Oに?俺の?なにを?」
「一番は…M君のおうちのこと」
受話器の向こうが、一瞬だけ無音になった。
「M君が、ひょっとしたら子どものころ虐待受けてたんじゃないかな?と感じたから」
「あー……………なんだよ、それ…」
どういう意味なのか、絞り出すようにM君は言った。
「Oはなんだって?」
「養子のこととか、M君が家族と疎遠になった経緯とか、話してくれた」
「うん、そこらへんはあいつには話してあるから。
そうじゃなくて、その、さっき喪子が言ったやつとか、そっち」
「ん?虐待のこと………??
わからないけど、そうじゃないかと思ってるって」
「俺がそういうの受けてたって?」
「うん、たぶんって」
「俺、それはないから」
このあとも「それ」とか「そんなこと」とか抽象的に言ってたんだけど
すんごいわかりにくいので、一応ちゃんと「虐待」って言葉で書いときます。
「そう…そうなんだ」
「そんなふうに見えた?」
「そんなふうって言うか…
なんか私、M君に対していろんな違和感があってさ。
それで総合的に考えて、ひょっとしたらって思っただけ。
違ってたのならごめん、変な勘繰りだったね」
「あの、俺いま、カウンセリング受けてるんだよ」
「えっ………!」
いきなりのカミングアウトに度肝をぬかれる私。
「さっき言いたかったのはそれ。ありがとう、言いやすくなった」
「ありがとう」とはほど遠い、強張った口調でM君は言った。
「んん…………?
じゃあ、なんでカウンセリング受けようと思ったの?
てか、なんのカウンセリング受けてるの?」
「ワーカホリックの」
ワーカホリックとは仕事依存症のこと。
表面的には「仕事を頑張ってる人」っていうプラスイメージがあるし
アルコールやギャンブルの依存症とは、ちょっと性質が違うので
本人も自覚しづらいし、周りからもわかりにくいやつ。
たしかに、以前のM君の働き方はそんな感じだった。
M君、そこは自覚できたんだ…。
どうしてワーカホリックになったかだ、と言われた。
たぶん、子どものころのことが影響してるんだろうって。
だけどさ、よくわからないんだよね。昔のことだし」
「記憶が曖昧になっちゃってるんだ?」
「うん。虐待された覚えもないから、別に問題ないと思ったんだ。
でも、”覚えがない”と”覚えてない”では、全然意味が違うって言われてさ。
俺はちょっと忘れすぎらしくて…」
「忘れすぎって?何年のとき何組だったかとか?」
「あのー、そういうのじゃなくて………」
「じゃなくて?」
誰と友だちでどんなことがあって…ていうのを、何も覚えてない」
「え?………遠足でどこ行った、とかは?」
「いや、そもそも、自分が小1だったことが思い出せないと言ったほうが早いかな。
小1のだけじゃなくて、すっぽり記憶が抜けてるところが、ちょこまかあってさ」
「自分でおかしいなって思わなかったの?」
「単に俺が記憶力悪いだけだと思ってた。
昔のことを忘れるのは当たり前のことだから」
確かにM君、「俺、忘れっぽいから」ってよく言ってた。
解離性健忘という症状なんだそうだけど、このときの私はそんな言葉は知りませんでした。
「M君………はっきり言って、それは当たり前な忘れ方じゃないよ…」
「うん…」
「しかも、それを当たり前だと思っちゃってることが、なんて言うか……
ごめん、私からすると、ものすごいヘンだ……」
「そっか…」
「え、何に?」
「私からするとものすごいヘンなことでも
M君は、それが当たり前な世界に住んでたんだね。
だったら、私がM君に違和感があるなんて、それこそ当たり前だったんだ…
だって私たち、住んでる世界が、見てる世界が、そもそも全然違うんだもん。
私、M君と付き合うってことは、M君と世界が同じじゃなきゃいけないんだと思ってた。
だけどそうじゃないから、もう付き合っていくことはできないんだって……
でも、それ違ったわ!
人それぞれ、世界なんて違ってて当たり前だよね!
だって、M君はM君、私は私!それぞれがそれぞれに生きてるんだもん!
私、大切なことに気づけた気がする!ありがとうM君!
ねえ、よければ私ともう一度付き合ってください!!」
「はっ?えっ?」
「だめだよ、当たり前でしょ」
「また即答かい。なんでだめなの?」
「なんでって、そりゃ…俺たち、一度別れてるんだよ?
しかも原因のほとんどが俺でさ。
俺、こんな人間なんだぞ?だめに決まってるだろ」
「こんな人間って、どんな人間さ?」
「最悪の人間だろ、喪子や他の人のことも散々傷つけて…
カウンセリングなんか受けてるし、まともじゃないし……」
「M君!そろそろいい加減にしてもらおうか!」
「……はい?」
あのことで一番私を傷つけたのは、私自身だったからね。
確かに、M君がきっかけでいっぱい泣いたさ。
だけどそれは、自分でも気づいてなかった私の存在を
M君が気づかせてくれたからなんだよ。
正直それって、M君よりもずっと強烈で、どデカイ存在だったんだよね。
M君が自己卑下するのは勝手だよ。それは好きにしていいさ。
だけど、M君の中に”俺が傷つけた女一覧”みたいにして私が残るのは、絶対にイヤだ!!
私が聞きたいのは、そういうのじゃないんだよ。
こうだからダメとかなんとか、そんな言い訳、私にはどーでもいいの。
M君が本当はどうしたいのか、私はそれが聞きたいだけなの!
なんで今!なんのために!君は私に電話してきてるんだ!
この後におよんで理屈で取り繕って、カッコつけてんじゃねーよカッコ悪い!
だけど!私はそんなカッコ悪いM君のことも大好きなんだよっ!!!」
だけどこのときの私には確信があったんだ。
M君が言いたいのは、絶対にそんなことじゃない!
あのカラオケボックスのときだってそうだし、きっとそれだけじゃなくて
私たちがすごしてきた毎日に、彼が言わないままにしてしまった沢山の言葉があるんだ。
そんなM君がどういうわけか、わざわざ電話までかけてきた。
その勇気は、絶対に私がすくい上げて、受け止めなくちゃならない。
またもや黙り込んでしまったM君に、私は尋ねた。