携帯の留守電をチェックしたら親父からメッセージが入っていた。
大抵は忙しさに託けて電話を返さない俺だったが、この時のメッセージはなんだか親父が普通じゃない気がした。
しかも親父の口から母のことが出るなんて。
夜、親父に電話した。
「あのな。お前には言ってなかったんだが」
前置きした親父が語った話はひどく俺を動揺させた。
「母さん、ブラックリストに引っかかっててな。 離婚後、母さんに頼まれて、信用金庫のやつ作ったんだ」
「目的は?理由は?」
「亜矢(妹の名だ)の私立高校の学費で生活が苦しいって」
「苦しい?待てよ、あの時は俺も母ちゃんも働いてたから、 亜矢の学費だってなんとかなってたはずだぞ? 借金は親父が背負ってくれてたし…」
「俺もそう思った。
だけど私立は部活の寄付金だのなんやかんやで金がかかるって言われたんだ。
それに、借金を背負う代わりに、亜矢の養育費はいらないって言われてたから、せめてカードぐらいはと思って、な。
返済は母さんが責任持ってやるって言ってたし、現に返済が遅れて俺に督促の連絡が来ることもなかった。
それにその後、亜矢は私立の短大にも入ったろ。
だから、亜矢が短大を卒業したらカードも解約するって約束で、そのまま持たせてたんだ」
「…それで?」
「ところがな、カードが解約されてなかったんだ」
「この間、俺のアパートに督促状が来てな。二ヶ月分たまってた。
俺も『まだ解約しないで使い続けてたのか!』って思ったら頭がカーッとなってな。
でも母さんに連絡してアチラの家に迷惑かけるわけにもいかんから、
直接、信用金庫に電話したんだ。別れた女房が使ってるって言っちまってな」
「それで…親父もブラックリストに入ってしまったのか?」
「いや、きちんと払って解約してくれればそこまでの処置はしないって、信用金庫の担当者が約束してくれた。
それで…悪いがお前に頼みがあるんだ。
母さんや信用金庫と連絡とって、後の処理をしてくれないか?
俺は母さんに連絡なんてしたくないし、出来ないし、それに今、仕事で名古屋に来てるんだよ。
抜けられん仕事だから、信用金庫に出向くことが出来ないんだ」
仕方ないか、としか思えなかった。
夜勤明けで疲れていたせいもあると思う。
「本当にすまん。昔からお前に頼ってばかりで…」
そこで電話が終わればよかった。
「大体、アイツは、」
親父が母に対する愚痴を言い始めた。
離婚から今に至るまで、親父が母のことを悪く言うことはなかった。
初めて聞く、親父の心情。
溜め込んでいたのだ。
だが俺にそれを聞いてあげられる余裕なんてなかった。
「やめてくれよ!
俺は親父と母ちゃんの息子だぞ!?
そんなこと、聞かせることじゃないだろ!?」
荒々しく携帯の電源を切り、ぶん投げた。
既に親父が俺を代理人とする旨を連絡していたため話は早かった。
解約には俺の身分証と、俺と親父が血縁であることの証明書があれば問題ないとのことだった。
夕方、役所に戸籍抄本をとりに行き、そのまま仕事に向かった。
職場に着くと、仕事を始める前に母に電話した。
夕飯の準備をしていたという母に、すぐ本題を切り出した。
「どういうことだよ?」
努めて口調は抑えた。
「ちょっと待って」
母は慌てた声を出した。
別室に移ったようだった。
「お父さんから聞いたの?あれはちょっと振込みを忘れただけ。大丈夫」
「…そういう問題じゃない!!」
「………」
「俺もだいぶ貸したよな?あんまり返してもらえてないけど。
お父さんが家にあんまり金を入れてくれないから、なんて言ってたけど、本当にそうか?
そこにお父さん、いるんだろ?俺、お父さんに聞いてもいいか?」
もちろん、そんなことはするつもりは無い。
「それは…やめて。お願い」
母の振り絞った声が、いつも思っていた疑問の答えになった。
「…つまり…そういうことなんだな。
お父さんが原因じゃなく、自分で勝手に作った借金なんだろ?」
「…うん」
「あんた、病気だよ」
母は黙っていた。
信用金庫に返す金を準備するよう母に言い、電話を切った。
その日の仕事はやたら長く感じた。
これから訪ねる旨を伝え、次に母に待ち合わせの時間をメールする。
その足で新幹線に乗り、今までで一番、気乗りしない帰郷をした。
駅の改札口にいた母が目にとまった。
その姿にますますムカムカした。
母が何か言いかけたが、俺は黙って母の手から金の入った封筒をひったくった。
信用金庫では責任者らしき年配の男性が俺の応対にあたった。
つつがなく手続きが済んだ後、男性が言った。
「大変ですね。お察しします」
仕事上の言葉だったと思うが、少しありがたかった。
いつもなら、年末年始に帰郷するのか母から連絡が来るところだが、今年はない。
当然か、と思っていたら、恵子ちゃんからメールがきた。
「今年は帰ってくるの?久しぶりに健吾君と会ってお酒でも飲みたいな」
避けようと決めてからは俺からメールを送ることはなかった。
恵子ちゃんから来ても、当たり障りのない言葉で2、3行のメールを返すだけ。
この時も、仕事が忙しくて帰れないな〜、風邪ひかないようにね、とだけ返した。
実際、恵子ちゃんのことを抜きにしても、今年は帰りたくない。
わざとスケジュールに仕事を入れ、職場のTVで除夜の鐘を聞いた。
1月の中頃のことだった。
母と恵子ちゃんからほとんど同時にメールがきた。
母の内容はこうだった。
「お元気ですか?
去年はひどい思いをさせて、本当にごめんなさい。
とても反省しています。
まだ怒っていることでしょう。当然です。
だけど、それを承知の上でお願いがあるのです。
2月に英治君(義弟の名)が彼女を連れて帰ってきます。
彼女の家族とウチの家族の顔合わせをするのです。
当人たちは結婚式をしないつもりだそうで、
だからこの顔合わせはとても大事なものです。
みんな、貴方も同席してくれるのを望んでいます。
どうか一時だけでもいいので、私への怒りを我慢してもらえませんか?
勝手なことを言ってごめんなさい」
気持ちは大分落ち着いていたが、まだ母への怒りが消えたとは言い難かった。
もちろん英治君たちは祝ってあげたい。
でも…母の顔を見たらきっと俺は…。
「元気?
2月にまた上野で書展があります。
今回は入賞しました!
もちろん今年も行く予定。
一緒に行ける?
またこのおのぼりさんを東京見物に連れてってほしいな」
入賞したのか。
よかったなぁ。
うれしくて仕方ないだろうな、恵子ちゃん。
一緒に祝ってあげたいなぁ。
でも。
すぐに返事のメールを送った。
「ごめん。
その日は仕事なんだよね。
忙しい時期だから抜けられないんだ。
入賞おめでとう。
君はやればできる子だと思ってたぞ(笑)」
仕事は暇だった。
スケジュールのやりくりはいくらでも出来た。
「そっか〜残念。
私は健吾君の感想が一番好き。
偉い先生とか書をやっている人とかから色んな感想や意見をもらうけど、書をやっていない健吾君からもらえる感想はとっても素直で、ストレートに私に入ってくるの。
私の作品が書をやっていない人の心に残って、書って良いね〜って思ってもらえてる、そんな気持ちになれるの。
だから本当に残念。
お仕事がんばってね。
無理して身体壊さないようにね!」
「話は変わりますが、工藤 直子って憶えてる?
健吾君は観てないけど、健吾君が転勤するちょっと前の書展で私が作品の題材にした「花」という詩を書いた人。
その人の本で私のお気に入りのがあるのね。
それ、ぜひ健吾君に読んでほしいので送るね。プレゼント。
本当は会って直接渡したかったけど。
気に入ってもらえるといいな」
本当は俺、あの作品観たんだよ、恵子ちゃん。
あれを観て、俺は母との喧嘩別れを思い直し、家族を二度と切り捨てないって、誓ったんだ。
恥ずかしくて、そんなこと君には話してないけど。
恵子ちゃんの字が頭に蘇ってきた。
どんなことがあっても家族は家族なのだ。
俺は母に「出席する」とメールをした。
こちらは亜矢の家族も同席し、ちょっとした大人数だったが、彼女側もおじいちゃんやおばあちゃん、兄姉の家族などが揃い、大変な賑わいとなった。
(こうして、家族ってのは増えていくんだな)
みんなに酌をしながら、そう思った。
母も同乗していた。
駅で一旦、俺と母を下ろし、お父さんは車を駐車場に置きに行った。
母が口を開いた。
「今日は本当にありがとう。ごめんね」
今日は会ってからあまり会話をしてなかった。
足元を見ながら話す母に、俺も言った。
「ひとつだけ、本当のことを話してよ」
「うん」
「もう、借金は無いんだね?大丈夫なんだね?」
「うん。大丈夫」
「その言葉、信じるからね?」
「うん。本当にごめんなさい」
「ならいいよ。忘れようぜい(笑)」
本心から笑えたわけではなかったが、それでも少しは軽くなった。
母は相変わらず下を見ながら、また「ごめんね」と言った。
中にはチョコと本が入っていた。
本来の意味として受け取りたかったチョコを頬張りながら、本を読み始めた。
工藤 直子「ともだちは海のにおい」
それはイルカとクジラの友情物語だった。
どこかほのぼのとさせる挿絵と、飾らない文章がとてもいい。
(確かに恵子ちゃんが好みそうだ)
読んでいたら恵子ちゃんの顔が浮かんできた。
読み進めたら、ますますその顔が増えた。
だめだ。
1/3も読まないうちに、本を閉じた。
そしてそれ以来、一度もこの本を開いたことはない。
ホワイトデーの意味で俺も本を贈った。
大森 裕子というイラストレーターの書いた絵本。
「よこしまくん」と「よこしまくんとピンクちゃん」という2冊。
見栄っ張りで、ヘソ曲がりで、ぶっきら棒で、格好つけなフェレットが主人公で、
ピンクちゃんというガールフレンドがいる。
大人が読んで思わず「くすっ」となる絵本だ。
「ともだちは〜」ほど深いものはないが、俺はとても気に入っていた。
「本、ありがとー!
よこしまくん、すごくいい!
かわいくて、ほんわかしてて。
『けっ』とか『ふんっ』とか言ってるひねくれモノなんだけど、素直じゃないな〜コイツ♪って感じで、どこか憎めない。
こんな人、いるよねぇ…あ、いたいた!横浜にひとり(笑)
ピンクちゃんとのコンビもいいね!
なんだかんだピンクちゃんに言っても、ちゃーんとピンクちゃんのこと大事に思ってて、 ピンクちゃんも、よこしまくんのことすごいなーって思ってて。
なんか微笑ましい。
ホントにありがとう!大事にします」
ああ…そういや俺、似てるかもな。
よこしまくんほど、ハッピーじゃないけど。
夜勤明けでマンションに帰ると、エントランスホールの郵便受けの前に、長髪のデカい男が立っていた。
そいつの足元には大きな旅行用トランク。
なにやら携帯で話していた。
(マンションの住人じゃないな)
俺の住んでるマンションは、エントランスホールにあるインターフォンの操作盤に鍵をささないとエレベーターが動かないようになっていた。
部外者が2階以上に上がるには、インターフォンで住人に呼びかけ、エレベーターを動かしてもらわなければいけない。
(邪魔くせーな)
そいつをすり抜けるようにして郵便受けに手を伸ばしたら、そいつが声を上げた。
「あ」
「来た。帰ってきた」
電話の相手に言っているようだった。帰ってきた?俺のことか?
「おお、大塚!」
声を聞いてようやくわかった。
高校時代の友人、辻田 大だった。
「大か!?…なんで、ここに」
「おお!ほれっ」
大が携帯を俺に差し出した。
「大塚、おひさ〜!」
電話の相手は三浦 勝だった。こいつも高校の時の友人だ。
すぐに俺から携帯を取り返した大は、
「ありがとな!じゃな!」
と三浦に言い、電話を切ってしまった。
あまりに突然で二の句が告げずにいる俺に、大が言った。
「とにかく部屋に入れろ。話はそれからそれから」
言われるまま部屋に案内した。
俺はコイツが大好きだった。
高校時代、俺は大と三浦、そして木島 周平、河相 真子という友人たちとバンドを組んでいた。
世は空前のバンドブームで、河相 真子以外の4人は女の子にモテたいがための結成だった。
俺以外の4人は同じ高校で、中学の時から大と友達だった俺が後から誘われた格好だった。
高1の終わりから2年間バンドは続いたが、高校卒業と同時に解散した。
卒業後、俺と三浦は社会に出、周平と真子は東京の大学に進学し、大は「ビッグになるぜい(笑)」と笑いながら、なんとイギリスに行ってしまった。
ベーシストだった彼は、その道でメシを食っていこうとしていたのだ。
それ以来の再会だった。
俺にも差し出し、缶をぶつけてきた。
「ほい、おひさしぶり」
相変わらずなヤツだ。
中学の国語の授業で「豪放磊落」という言葉を習った時、コイツの顔が浮かんだ。
今も変わっていない。なんだかうれしかった。
「おい、飲みに行こうぜ」
ビールも飲み干していないうちから、大が言った。
「アホか。まだ11時だぞ。それに俺、夜勤明けなんだ。少し寝かせろ」
「なんだ、仕事明けか。私服だから、てっきり朝帰りかと思った」
「(笑)土日はスーツ着ていかなくていいんだ」
「あ、そ。
なぁ行こうぜ、飲み。
横浜なら、昼間からやってるトコあるだろ?まして日曜日だし」
「勘弁しろって。行ったら潰れちまうよ。俺が酒弱いの、憶えてるだろ?」
高校の時、大とはよく飲んでいた。
「OKOK。んじゃ俺も寝るわ」
「それはそうと、どうして帰ってきたんだ?なんで俺んとこに来た?」
聞きたいことは山ほどあった。
「話は夜な。寝ろ寝ろ」
こうしてコイツに振り回されるのも高校以来だった。悪い気はしない。
しかし大はまだイビキをかいていた。
「おい、起きろ」
大を叩き起こし、外に連れ出した。地下鉄に乗る。
吊革が大の胸元で揺れていた。
190cmあるコイツと並ぶとまるで大人と子供だ。
「地元にいた時、三浦からお前の様子は聞いてたけど、仕事は順調なのか?」
「当然」
いつでも自信家なコイツが本当に羨ましい。
しかし現に大の言ってることは真実で、4年ほど前、イギリスでは割とメジャーなバックバンドに入ったと、三浦から聞かされていた。
俺もそのCDは何枚か持っている。
「いや、用があって帰ってきたんだ。すぐまたあっちに戻る」
「用って?」
「俺のばあちゃん、憶えてるか?こないだ死んだんだ」
大は幼い頃に両親を亡くし、祖母と二人暮しの生活を送っていた。
こんな豪気な大も、日本を離れる時、祖母の心配だけはしていたが、祖母は元気に大を見送った。
俺たちバンドメンバーも一緒に空港まで見送りに行ったのだが、大がいなくなることよりも、その祖母の姿に涙が出てしまった。
「位牌持ってきてるから、後で拝んでやってくれ(笑)」
「位牌を持ってきてる…?」
「実家、処分するんだ。
もう誰も住むやついないしな。手続きは済ませてきた。
ついでにお前や三浦に会っていこうと思ってさ。
お前の住んでたアパートに行ったけど、もう別の人間が住んでてよ。
んで、三浦のところに行って聞いたんだ。お前がこっちにいるって。
横浜なんて来たことなかったから、だいぶ迷ったわ(笑)」
「それで朝、三浦と話してたのか(笑)」
「うん。つーか三浦に電話するのも四苦八苦だったんだぜ(笑)。
日本の携帯電話の使い方って、イギリスと微妙に違うんだよ。
これ空港で借りてきたやつだからさ」
「なるほどな。なら三浦に悪いことしたな。
こっち来てから初めてアイツと喋ったのに、誰かさんに電話切られちまって(笑)」
「三浦なんてどうでもいいんだよ(笑)
お前は会おうと思えばいつでも会えるんだから。
それより俺との再会、大事にしろよ?(笑)
もう一生会えないかもしれないぞ」
「お前、もう日本に帰ってくる気はないんか?」
「ん。それに今度、アメリカに移るんだ。今のバンド抜けて」
「?今のバンド、あんまり良くないのか?
仕事の依頼もバンバン来てるらしいって、三浦も言ってたぞ。
勿体ないじゃん」
「それはそうと…
おい、お前まさかハードロックカフェに連れてくつもりじゃないだろな?
知ってんぞ、横浜にもあるって。
やめてくれよ、アッチで行き飽きてんだ(笑)」
まさにそのつもりだったからドキッとした。
「違うわい。ほら、降りるぞ」
慌てて関内で降り、行き着けの店に行き先を変更した。
「それほど、日本食に飢えてるワケじゃないんだがな(笑)」
「うるさい。文句言うな」
そうは言っても刺身や日本酒に、大は喜んでいた。
「さっきの話。アメリカって、なんでだ?」
「もっかい勉強し直そうと思ってさ。アングラから再スタートだ(笑)」
「メジャーCDにもなってるってのに、なぁ。惜しくねーか?」
「まだまだよ、俺の腕は」
「ん?イギリス人に『謙虚』って言葉を学んだんか?(笑)」
「(笑)たまたま以前のライブで知り合ったプロモーターにアメリカ行きを勧められてさ。
費用から住むところから、全て面倒見てくれるってんだ。
少し行き詰まってたところだったから、世話になることにした」
目をキラキラ輝かせて未来を語る、なんてことはこの三十路を越えた男にはなかったが、忙しく箸とお猪口を動かしながら話すその声は弾んでいた。
事も無げに言いやがった。
「すぐ帰らなくていいのか?つーか、帰れ(笑)」
「(笑)見納めしときたいんだよ、日本の」
「仕方ねぇなぁ」
「宿泊費は出さんぞ」
「出せバカ(笑)」
ふたりともグデングデンになって家に帰り、
それでも祖母の位牌の前ではふたり並んで手を合わせ、寝た。
起きると大が床に寝ていた。
ふたりとも昨日の服のまま。
たしかふたり揃ってベッドに倒れこんだはず。
俺はかろうじてベッドに寝ていた。
(ズリ落ちたか、大)
なんだかニヤけてしまった。
この図体のデカい男とこれからちょっとの間、一緒に暮らすのだ。
俺は3日間だけの同居人に毛布と合鍵を被せ、静かに身支度を整えて会社に向かった。
電車の中でふと思った。
(10年以上会ってなかったのに、昨日はすんなり話せたな)
高校時代の友人は一生モンだと、誰かが言っていた。
こういうことを言うのだろうか。
(なにワクワクしてんだ(笑)新婚さんかよ)
ドアを開ける時、やたら可笑しくなった。
そしてドアを開けたら、笑い転げてしまった。
エプロン姿の大が立っていた。
「なんだよ!?その姿!!」
「メシぐらい作ってやろうかと思ってよ。あ、この姿はウケ狙いだ(笑)」
190cmの長身にまるで合っていないサイズだった。
「それよか、お前んち最低!包丁もフライパンもねーじゃねーか!」
「仕事から帰ってきたら作る気力なんかないんだよ。一人暮らしだから作る量も難しいし」
「俺はあっちでも自炊してたぞ。ちゃんと全部平らげてたしな」
「お前とは食える量が違うんだよ」
台所に行ってみると、
包丁やらまな板やら鍋やらが、出来上がった料理と一緒に並んでいた。
「宿泊費だ。とっとけ」
料理は美味かった。見事なもんだ。味噌汁まで出された。
「おい、カラオケ行こうぜ。久しぶりに歌聴かせろよ」
バンド時代、俺はボーカルを担当していた。
楽器なんてひとつも出来なかったから。
「すげぇな、今時のカラオケって」
近所のカラオケ屋に連れて行った。大は大はしゃぎだった。
イギリスにもカラオケはあるそうだが、機材がまるで違うらしい。
採点システムに感動していた。
大は黙って俺の歌を聴いていた。
冷やかしもしなければ合いの手すら入れない。
およそ同僚と来る時とは雰囲気が違う。なんだか照れた。
「相変わらず聴かせるじゃねぇか」
「プロに言われるとうれしいな(笑)世話になってるからって、世辞を言う必要はねぇぞ(笑)」
「いや、上手いよ」
大の顔は真剣だった。
普段はふざけたヤツだが、こと音楽のことになると顔つきが変わるようだ。
これがプロってものかと感心した。
大の選曲は洋楽オンリーだった。
あまり上手くはない。
ベースを持つと天下一品なんだけどなぁ。
ギャップに笑った。
行き着けのバーに案内した。
軽く、のつもりが昔話に花が咲き過ぎた。
お互い酔っているのがすぐわかるほどだった。
でも酒が美味くてやめられない。
今度コイツと飲める日なんて来ないかもしれない。
そう思うと今日という日が惜しくなり、潰れる覚悟でおかわりし続けた。
「そういえば、さ。お前、真子とはあの後どうなったん?」
グラスにしな垂れかかりながら大が言った。
「真子って、バンドの時の真子か?」
「他にいねぇだろ」
「あの後って、なんだよ?どうなったってのは?」
「周平が死んだ後だよ。お前、真子のこと好きだったんだろが」
俺は真子のことが好きだったが、仲の良いふたりを見続けるだけだった。
高校卒業後、ふたりは東京の大学に進み、俺は地元に残った。
そこでバンドは終わり、俺の想いも終わった。
20歳の時、周平が亡くなった。
車を運転中の事故だった。
大は仕事で戻ってこれなかったが、俺と三浦は周平の葬式に参列した。
同じく参列していた真子は痛々しいほどに悲しみに暮れていた。
葬式の時もその後も、俺は慰めの言葉をかけてあげることが出来なかった。
それから3年ほど経った時、彼女から連絡があった。
大学を卒業した後、東京で就職したとのことだった。
その時の真子は、周平のことを引きずっている様子もなく、俺は安心した。
それ以降、彼女がどうしているかは知らない。
「気付かれてたのか(笑)」
「俺にはな。こう言っちゃなんだが、チャンスだったんじゃないか?」
「真子に言い寄るチャンス、か?」
「そうだよ」
「あの時はとっくに気持ちなんてなかったよ。 お前も知ってるだろ?あの頃俺んち大変だったから、そんな余裕もなかったしな」
「そうか?家のせいにしてただけじゃないか?」
「お前、あの時いなかっただろが(笑)見てたようなこと言うな」
「まぁな。なんとなくそんな気がしただけだがな」
「甘酸っぱい思い出ってやつだ(笑)」
もう一杯だけ飲んで帰ることにした。
「いないねぇ」
「好きなやつは?」
「いないなぁ」
「つまんなくねぇか?好きな女すらいないなんて」
「別に」
「ふーん」
お互いリミットだと判断し、グラスを空けることなく店を出た。
「そういうお前はどうなんだよ?金髪のステディでもいるのか?(笑)」
「俺のことより、お前のほうが心配だよ」
大きな身体を俺に覆い被せながら、つぶやくように大が言った。
ベッドでウンウン唸っていたら、
大がゼリーとミネラルウォーターをコンビニから買ってきてくれた。
「俺、観光に行ってくるわ。今日、夜勤だろ?合鍵くれ」
「おばあちゃんの位牌に、ご飯出したか?」
「なんだ、それ?」
「茶碗にご飯を盛って、箸差して位牌の前に出すんだよ。知らんのか?」
「知らね。イギリスにそんなん無かったもん」
「日本にゃあるんだよ」
「お前、ジジくさいこと知ってんな」
いそいそとご飯を位牌の前に置き、大は元気に出て行った。
ベッドでひとりで寝ていたら、無性に寂しくなった。
(気色わりぃ)
苦笑して、また眠りに落ちた。
大はまだ帰っていなかった。
家を出る時、「いってきまーす」と俺は部屋に声をかけた。
翌朝、家に帰ると大が俺のベッドで寝ていた。酒臭い。
(こんにゃろ)
と思ったが、俺もベッドの横で毛布にくるまった。
夜、目覚めるといい匂いがした。また味噌汁だ。
「起きたか。メシ食え」
「うれしいけど、なんだか気色悪いな(笑)」
「俺だって(笑)」
差し向かいでの夕飯。可笑しくなる。
「お前、仕事楽しいか?」
「? 別に…楽しくはないわな。女も出来んし」
「こんな不規則な生活じゃあな」
「おお!?お前に言われるとはな(笑)
ミュージシャンなんて、不規則の代名詞だろうが」
「お前、マスコミに毒され過ぎ(笑)意外と真面目なもんだぜ?」
「そうかね」
「そうさ」
(?)
なんだ。何が言いたかったんだ?
「大塚」
答えはすぐにわかった。
「お前、俺と一緒にアメリカ行かねぇか?」
爪楊枝を口に加えながら大が言った。
仕事の息抜きにアメリカ旅行でも連れてってくれるってのか?(笑)」
「違う。アッチで一緒にまたやろうって意味だよ」
コイツ、何言ってんだろ?
大が冗談を言ってるわけではないことは、その顔を見ればわかったが、その真意が計りかねた。
「お前と一緒にバンド組むのか?」
「そう」
「俺にボーカルやれってか?」
「うん」
「アメリカで?」
「で」
「俺の歌、そんなに良かったかぁ?あんなカラオケごときで」
「いや、全然ダメだ。歌唱法も何も、基礎から全然なってない」
「なんだそりゃ」
「でもな、いいモン持ってると思ったんだよ」
「そんなのわかんのか?」
「わかる」
これは俺も真面目に話さなければいけないと思った。
雇われバンドじゃなくて、自分のバンドを持ちたいってな。
確かにお前も知ってるとおり、雇われバンドとして俺はある程度成功したのかもしれない。
仕事の依頼も多いしな。
でもこのままじゃ、どこまで行ってもそれ止まりな気がするんだよ。
所詮は雇われだ。
CDのジャケットに俺の名前がドーンと載るわけじゃない。
バンドの名前も俺が考えた物じゃない。
全部、他人が創り出したモンなんだよ。
それに俺は乗っかってるだけ。
そんなこと考えてたら、こないだ話したプロモーターから今回の話を持ちかけられたんだ。
心機一転、やってみろってな。
今からアメリカに乗り込むんだから、当然、下積みからまた始めなきゃいけない。
それは長い時間になるかもしれない。
でもチャンスだと思ったね」
「確かにな。
お前より歌えるやつを俺はいっぱい見てきたよ。
実のところ、カラオケに行くまではお前を誘う気なんてこれっぽっちもなかった。
でもな。
あの時、俺、思い出したんだよ。
俺はお前の声が好きだったな、ってな。
高校の時にお前をバンドに誘ったのもそれが理由だったんだよ。
単にお前が友達だったからじゃないんだ」
「キーが高すぎるって、いつも文句言ってたじゃん」
「ガキだった俺に、お前の声好きだ、なんて言えると思うか?」
「………」
「どうせ再出発するんだったら、俺の好きなモノを集めたいと思ったんだ。
俺の好きな声や好きな音を持ってるやつ。
もうギタリストは見つけてあるし、そいつも俺と一緒にアメリカに行くことが決まってる」
「俺に会って、懐かしさが蘇っただけじゃないのか?」
「俺、プロだぜ?そんなことぐらいで、お前に人生賭けねぇよ」
「でもプロの世界って厳しいんだろ?そんな我侭が通じるのか?」
「甘い考えだとは思うよ。
でも我侭ってのはちょっと違うと思う。
俺にとって音楽は仕事でもあるけれど、でも俺の音は俺のものだからな」
言ってることは夢見がちな十代の台詞に思えたが、大の顔は大人の顔だった。
大の真っ直ぐな視線が俺を射抜いている。
言葉を整理しながら、俺はゆっくりと話した。
「まず…結論から言うわ。ごめん、俺はアメリカには行けない」
やっぱり、という顔を大はしたが、黙って俺の話の続きを聞いてくれた。
「正直、お前の話は魅力だよ。
俺、一瞬、アメリカに立ってる俺の姿を想像しちまった。
ものすごくワクワクした。
俺の声を好きだとも言ってくれた。うれしいよ。
それに、打算的な考えになるけど、ちゃんとお前にはお前を認めてくれるスポンサーもいることだしな。
例えアングラなフィールドから始まるにしても、お前が力強い気持ちでアメリカに行く気になれるのはよくわかるよ。
現実を踏まえた上での夢なんだな。
でもな。俺の中の現実は違うんだよ。
俺には、お前が言うほど、俺に力があるとはどうしても思えない。
それはアメリカに行ってからの俺次第でどうにかなるって、お前は言うだろうな。
俺、お前たちの仕事は天分だと思うよ。
お前にはそれがあって、俺にはない。
これは努力とかでなんとかなるもんじゃないって気がする。
どっかで聞いた台詞だなんて言うなよ?
本当にそう思うんだ。
それに、俺はビビッてる。
お前の誘いほど、俺の今の仕事に魅力があるわけじゃないけど、でもそれを捨てて知らない世界に飛び込めるほどの勇気は、俺にはないんだよ。
お前は昔のまんま、相変わらずすごいヤツだけど、俺だけ年とったんかな(笑)」
ようやく大の視線がズレた。自分の茶碗を見つめていた。
「なんだよ、考えさせてくれ、の一言くらい言ってくれよなぁ(笑)
…わかった。
ただな、ひとつだけ言うぞ。
俺がお前を誘ったのは、勘違いでも郷愁にかられたからでもない。
俺の頭がお前だって言ったんだよ。
…後で後悔すんなよぉ。俺の直感て、案外当たるんだぜ(笑)」
大は笑顔だった。
「よし!大塚!ビール飲むか!持ってくる」
「うん。俺の冷蔵庫から、俺のビールを持ってきてくれ(笑)」
「だけどなぁ…」大が両手にビールを持って戻ってきた。
「彼女もいないし、仕事もつまらんって言うから、日本に未練ナシってことでOKしてくれるかと思ったんだよなぁ。
甘かったか。未練とかそういう問題じゃないんだな」
未練。
さっきの大の視線よりも鋭く、それは俺に突き刺さった。
ふたりとも酔い潰れることもなく、1時過ぎには床に就いた。
すぐに大は寝息をたてた。
それを聞きながら、俺は寝付かれなかった。
1時間ほど経った頃、俺は大を揺り起こした。
「…んー?なんだぁ?」
「大、聞いてくれ。俺、未練ある。好きな女がいるんだ」
それを脇に抱き、俺の目の前にドカッと座り込んだ。
「どれ、聞かせろや」
一時間、話した。
恵子ちゃんのこと。
家族のこと。
恵子ちゃんとのこれまでのこと。
全て話し終えた時、大が一時間ぶりに口を開いた。
好きな女がいるってのは、それだけでなんだか、何よりも大事だしな」
大がタバコに火を点けた。
「しかし。お前…変わってねぇなぁ」
「スーツ姿も似合うようになって、すっかりオッサンになっちまったと思ってたけど、中身、高校の時と大差ねぇじゃん」
「今の話、お前、誰にも言ってねぇのか?」
黙って頷いた。
「…まぁ、恋の相談っつっても、今の話じゃあ、おいそれと誰にでも話せる内容じゃないわな。
でも俺は明日、ここからいなくなる。
話す相手としてはうってつけだったってワケか(笑)」
長くゆっくりと、大が煙を吐き出した。
「どうにもなんねぇな」
厳しい口調ではなかった。
「どうにかするんなら、何かぶっこわさないと、な。でもお前、それ、出来ないだろ?」
何も言えない。
「おい!ならよ。俺とアメリカ行ったほうが、キッパリスッキリするんじゃねぇか?ん?」
やっぱり何も言えず、大を見た。
「うわぁ…お前のそんな顔、初めて見た…。
やめろよお前、そんな切ねぇツラ。
なんか、母性本能くすぐられたぞ(笑)」
俺は俯いてしまった。
「ま、好きなだけ悩め。お前の気持ちだ。誰のモンでもねぇ」
もうお互い話すこともなくなり、今度はホントに寝た。
便は午後で余裕があったから、
ゆっくりと大の作った朝飯を噛み締めることができた。
空港までの電車の中、話すことなく、ふたりとも爆睡した。
空港のロビーに着くと大が言った。
「もうここでいいや」
「まだ離陸まで時間あるだろ?付き合うよ」
「いいよ。俺、なんか言ってしまいそうだもん(笑)」
「あのよ」
「うん?」
「アメリカ生活が始まったら、住所連絡するわ」
「うん」
「ケリついたら、教えろ」
「うん」
「もうこれで、日本に帰ってくることはないと思う」
「そか」
「…あ、いや、帰ってくるな、俺」
「?」
「メジャーになったら凱旋帰国だ(笑)」
「じゃあ、一生帰ってこないってことじゃん(笑)」
笑いながら、大が俺の肩を小突いた。
「バイバイ」
大きく両手を振って、大が俺に「帰れ」と急かした。
デカい男が、一際大きく見えた。
いいか、悪いかは、その友達でもわかるよね。
大みたいなすばらしい親友をもっている1さん、乙!
俺には性格が良いというより、誰にでも合わせられる「蝙蝠」君に思える。
要領良いだけなんじゃない?
平気で好きでもない奴とやれる奴でしょう?
最低の部類かとw
戻って来ないとパート2に突入だよ
五ヶ月もの間このスレッドを放置してしまい、本当に申し訳ありませんでした。
非常に遅れ馳せながら、続きをアップさせていただきます。
これが最後になります。
とても長い文章となっておりますがどうかご容赦ください。
また、最後に文章をアップした昨年11月から本日に至るまでの経緯を後ほどお話しさせていただきます。
今更ですみません。
3月も終わりを告げた時だった。
俺は故郷への出張を命じられた。
仕事の内容は新入社員への研修。日程は一週間。
研修開始日の前日夜、俺は故郷に先乗りした。
前もって太田家には出張のことを連絡していたのでお父さんは太田家への滞在を勧めてくれたが、連日、同僚との飲み会が予想されたため、俺は迷惑をかけまいとお父さんの申し出を辞退していた。
会社のとってくれたホテルに、俺は苦笑した。
そこは三年前のクリスマスイブに、芽衣子さんと泊まるはずだったホテル。
さすがに同じ部屋ではなかったけれど、窓から見える夜景は変わらなかった。
一瞬よぎるほろ苦い思い出。
(思い出…になったなぁ)
缶ビール片手に、しばらく夜景を眺めた。
翌日。
古巣である事務所に出勤すると、懐かしい顔が俺を出迎えた。
転勤前によくパートナーを組んでいた後輩・友枝だった。
「お久しぶりです!
今日は俺が大塚さんのアシスタントですよぉ。凸凹コンビ復活!!(笑)」
ずんぐりむっくりとした体躯に、人懐っこい笑顔。
男の俺から見ても可愛らしく感じる友枝は、少しも変わっていなかった。
いや、少しお洒落になったかな。
趣味の良いワイシャツとネクタイが似合っていた。
みんなお揃いかと思えるような、
色も形も定番のリクルートスーツに身を包んだ初々しい新入社員たち。
中途採用で入社した俺の目に、彼らがとても眩しかった。
研修はとにかく忙しかった。
しかし友枝のサポートでそつ無く進行することができた。
昔はちょっと頼りない男だったが、この三年で見違えるように成長していた。
所作の全てに自信が覗える。
頼もしくもあり、ちょっとだけさみしくもあった。
無事に初日を終え、後片付けをしていると友枝が言った。
「大塚さん。今日この後、どうします?」
「んー。さすがに疲れたよ。帰る」
「ちょっと付き合っていただけませんか?」
「飲むのかぁ?やだよお前、うわばみなんだもん(笑)」
「そんなこと言わず(笑)お話、というかご報告があるんです」
「なんだ?」
エヘヘ、と意味深な笑みで友枝は俺の問いをかわした。
妙に気になった俺は、彼の誘いに応じた。
赤ちょうちんがステータスだった友枝だけに、意外で驚いた。
「こんな店ができたんだなぁ。というかお前、よく知ってたな(笑)」
「エヘヘ」
またあの意味深な笑いだ。
「この店、彼女から教えてもらったんです」
驚きの連続だった。
三年前まで『彼女いない歴=年齢』だった友枝。
とても嬉しそうだ。俺も嬉しかった。
「やったなおい!彼女できたんかぁ」
「はい!しかも俺、結婚します!!」
おいおい、まだ驚かす気か、友枝。
「うわぁ、おめでと!…で、相手は?」
「大塚さん、おぼえてますかね?○×社の野田 芽衣子」
驚くにもほどがあった。
それにまず、大塚さんに報告したくて」
前置きをした友枝が、こぼれる笑顔で話を続けた。
俺と芽衣子さんの関係を知っていたのは社内では東京の先輩だけ。
先輩は口の堅い人だったから、友枝は知らないはず。
俺は平静を装った。
付き合い始めたのは去年の6月だという。
以来、順調に時を重ね、半年後のクリスマスにプロポーズしたそうだ。
はしゃぎながら芽衣子さんとの惚気話に夢中になる友枝。
いちいち頷きながら友枝の話に耳を傾ける俺。
ふたりとも、頼んだ酒や料理にほとんど手をつけなかった。
早くホテルに帰って頭を整理したかったが、無邪気な友枝の顔を見ていたらいつしか帰る気も失せ、俺は誘われるまま2軒目の店へとついて行った。
転勤前によく友枝と通ったバーだった。
「あらためて…おめでとう」
友枝のグラスにカチンと当てると、なんと友枝が泣き出した。
「な、なんだ!?どした??」
狼狽し、友枝の背中を摩る。
「い、いや、すんません。うれしいんス。うれしいんス」
ワイシャツの袖で、友枝は何度も目を擦った。
「大塚さんのっ、“ありがとう”がっ、うれしいんスっ」
可愛いヤツ。
こんなに無垢なヤツもいまどきいないだろう。
仕事でも見たことのない、至極真面目な表情で友枝が語り出す。
「実は彼女と付き合うことになる前、俺、一回告白したことがあるんです」
「…いつ?」
「一昨年の7月くらいでしたかね」
俺と芽衣子さんの交際が終わった頃だ。
「そん時は『好きな人がいるから』って、断られたんです」
「………」
「でも俺、彼女のことが、初めて会った時から好きだったから、諦められなくて、ずっと、想い続けてたんです」
知らなかった。
そんなにも深く、長く、友枝が芽衣子さんのことを想っていたなんて。
「彼女はいつも寂しそうでした。
その顔を見るたび、 好きな人とうまくいってないんだなって、俺は悲しくなりました」
胸にチクリと、何かが刺さる。
「だから俺、彼女の相談役になろうって、思って…
…あ、でも俺っ、別に変な下心は無かったっスよ!?
そんなんじゃなくて、あの、」
…なんていいヤツなんだろう、こいつは。
あさっての方向を見ているバーテンが、ウンウンと頷いている。
俺たち以外に客はない。
アンタもそう感じたんだね、バーテンさん。
俺、見た目こんなだし、嫌がられるかなって、ビクビクしながら彼女を誘ったんですけど、彼女は笑顔で応じてくれました。
ただ…俺、店のことなんて詳しくなかったから、いつも彼女に店を選んでもらってましたけど(笑)
…食事に誘ってるのは俺なのに…かっこわるかったなぁ(笑)」
みるみる友枝のグラスが空になっていく。
俺はまだ一杯目だった。
「相談役って言っても、彼女はいつも多くは語ってくれませんでした。
でも帰る時はいつでも『ありがとう』って、すごく綺麗な笑顔で言ってくれて。
毎回ドキドキしてました」
初めて友枝の口から聞けた“女性の話”。
始めはその相手が芽衣子さんであることに驚きと戸惑いをおぼえたけれど、友枝の素直な言葉にいつしか俺は引き込まれていた。
「そしたら去年の6月、 彼女のほうから『付き合ってください』って、言われたんス。
俺ビックリして、『いいの?』って何回も聞いてしまいました」
よかったなぁ。
素直にそう思えた。
「これ、良かったら召し上がってください。お祝いです」
「やっぱり聞いてましたね(笑)」
「はい(笑)」
ばつの悪そうに苦笑しながらバーテンが言った。
「ウチのオリジナルです。
本来はカップルの方にお出ししているんですが」
桃の香りと、微かな酸味。
シャンパンでアップされているそのカクテルは、この季節にピッタリな感じだった。
「なんという名前なんです?」
「“両想い”です。おめでとうございます」
「あ、ありがとうございますッ。ありがとうございますッ」
友枝がまた泣き出した。
千鳥足のくせに、友枝はホテルまで送ると言ってきかず、結局、肩を貸しながらホテルまで歩いた。
「ここでいいよ。ありがとな。気をつけて帰れよ」
「はい!ありがとうございました」
気になってたことを聞いた。
「…そのワイシャツとかネクタイとか、さ」
「はい?」
「野田さんの見立てかい?」
「はい!!」
酔ってるからか、照れ臭いからか、
真っ赤な顔して元気に返事する友枝を、なんだか無性に抱きしめてやりたくなった。
のっそりと踵を返した友枝がタクシーに乗り込むのを見届け、俺は部屋へと上がった。
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを掴んだまま、ベッドへと倒れこむ。
夢も見ずに、深く眠った。
太田家にも一度顔を出したが、それ以外は友枝や他の同僚たちと飲み歩いた。
そして研修最終日の夜を迎えた。
「大塚さんのお別れ会をしますから!」
友枝の音頭で事務所の社員全員が集まり、宴となった。
いい加減、二日酔いなのか何日酔いなのかわからぬほど酒浸りの身体になっていたが、彼らの気持ちに付き合った。
「2軒目、カラオケ行きます!逃がしませんよぉ(笑)」
ニヤリとした友枝に、俺も観念の笑みを向けた。
珍しいことにカラオケ屋には年配の社員も参加した。
若手だけかと思っていたのに、事務所のほぼ全員が顔を揃えている。
「?珍しいな。部長までいるじゃん?」
「俺が誘ったんです」
友枝の鼻息が荒い。
「ふーん?」
その答えは一時間後に判明した。
「はい!みなさん!聞いてください!!」
最高潮を迎えた部屋の喧騒を友枝が制した。
「わたくし友枝、このたび結婚することとなりました!」
部屋中に『?』マークが飛び交った後、友枝は質問攻めにあった。
「誰と!?誰と!?」
当然の質問に、友枝が屈託の無い笑顔で答えた。
「実は…これからココに来ます!」
!!!!
なんてこった。
やってくれるな、友枝。
ドキドキは何分経っても収まらず、心の準備はいつまでも出来なかった。
20分後、芽衣子さんは来た。
彼女がドアを開けて入ってきた時、顔を上げられずにいた俺の左右の耳に、とてつもない喚声が飛び込んできた。
男性社員からは悲鳴が。女性社員からは歓声が。
それからはカラオケどころではなかった。
みんなが寄り添うふたりに群がった。
恥ずかしげに俯く芽衣子さん。
今まで見たこともないくらい、胸を張っている友枝。
さっきまで俺と一緒にあずさ2号を歌っていた男が、その時よりも数倍輝いていた。
彼らの姿をぼーっと眺めながら、俺は芽衣子さんと付き合うことになったあの夜を思い出していた。
またもヘベレケになった友枝が俺をホテルまで送ると言う。
そして芽衣子さんも。
3人、肩を並べて歩いた。
だがホテルに着いても友枝は俺を放してくれなかった。
結局、友枝と芽衣子さんは部屋の前までついてきた。
「芽衣子ちゃん!俺ねぇ、大塚さん…だ〜い好き!」
愚にもつかないことを叫びながら、友枝が俺に抱きついてきた。
「俺も友枝、だ〜い好き!」
言いながら友枝を抱き止めた。
互いに抱きしめ合う30男たちを、芽衣子さんは微笑みながら見ている。
ふっ、と友枝が軽くなった。そして重くなった。
ヘナヘナと、俺の身体を舐めるように崩れ落ちて行く。
床に大の字になった友枝を見、そして芽衣子さんを見やった。
芽衣子さんと目が合った。今日初めて芽衣子さんと交わす視線だった。
一瞬の後、どちらともなく、ぷっと笑った。
「ひとまず部屋で寝かせよう」
俺と芽衣子さんは笑いながら友枝を抱え上げた。
「ほら、しっかり(笑)」
そう言って友枝の右腕を肩に抱え込んだ芽衣子さんの目は、なんとも言えない優しさに満ちていた。
俺は慌てて視線を外し、友枝の左腕で顔を隠した。
「元気だった?」
芽衣子さんが切り出してくれた。
「うん」
なんとか芽衣子さんに顔を向けた。
「このホテル…だったんだよね?」
「そうだったね(笑)」
あの日を思い出す。
と、大いびきの友枝に、ふたりの視線が向いた。
「ラウンジに…行くかい?」
「うん(笑)」
ふたりでそっと部屋を抜け出した時、なぜだか悪いことでもしているかのような錯覚に陥った。
「ずっと…ちゃんと話をしたいと思ってたの」
軽めのカクテルを一口含みながら、芽衣子さんが言った。
「そう…なの?」
同じものを俺も注文した。
いつもなら飲まないであろう、甘ったるいカクテル。
しかしそれは渇いていた喉にとても優しかった。
「うん。でもね…」
ふたりともバーテンの振るシェイカーを眺めていた。
「もう…いいの。もう、いいんだ」
自分の言葉に、ウン、とひとつ頷いて芽衣子さんは笑った。
俺も芽衣子さんに笑みを向けた。
「招待状、もらえるよね?」
そう言った俺の顔を、芽衣子さんがじっと見つめる。
潤んだ瞳に柔らかな光を灯し、芽衣子さんは言った。
「…ありがとう」
その言葉で、胸に残っていた最後の何かが、すーっと消えた気がした。
俺も…ありがとう。
「今日はこのまま、旦那さんは預かるよ(笑)」
「ごめんね。ダーリンをよろしく(笑)」
ロビーまで見送ることにした。
エレベーターの中、芽衣子さんが小さな声で言った。
「健吾君」
「うん?」
「今も…従姉さんのこと、好き?」
「うん」
ためらいもなく、素直に言えた。
微笑みながら、芽衣子さんは去っていった。
しばらくその寝顔を見つめた。
(こいつは…勝ち取ったんだ)
“勝ち取る”という言葉に、改めて俺は自分が持つ劣等感を意識した。
だがそれは、友枝に芽衣子さんをとられた…などというものではない。
友枝が勝ち取ったもの。
しあわせ。
ひたむきに相手のことだけを想い、努力してきた友枝。
それを得るのは当然だった。
俺は…彼ほど努力しただろうか?
否。
いつもウジウジと後先ばかり考えていた。
親父と母の心情を障害と見なしていた。
あきらめる道だけをひたすら選び、“忍ぶ恋”などというものに酔っていた。
『どうにかするんなら、何かぶっこわさないと、な』
大の言葉が頭に浮かぶ。
俺が事を起こせば、壊れるのは親父や母の心だと思っていた。
だが本当に壊れるのは、いや、壊さなければいけないのは、俺の臆病さなのだ。
(ありがとな、ダーリン)
友枝の頭を、クシャクシャに撫でた。
恵子ちゃんからだった。
『ゴールデンウィークに親戚一同集まってバーベキューします。
健吾君、来れるかな?ていうか、絶対来ーい!(笑)』
文字がやたら愛しい。
返信。
『喜んで参加させていただきます』
断る気はなかった。
一歩、前へ。
俺は歩ける気がした。
たった一日だけだが休暇をとった俺は、心の急くまま新幹線に乗った。
早く行きたい。バーベキューに行きたい。
いや、バーベキューなんてどうでもいいんだ、ホントは。
駅には恵子ちゃんが迎えに来てくれていた。
およそ一年ぶりに見る恵子ちゃんは…可愛かった。とても。
恵子ちゃんの実家からほど近い、山裾の川原がバーベキューの場所だった。
すでに俺以外はみんな顔を揃えていた。
まずは一杯、と生ビールを手渡される。
だが手厚い歓待もほんの束の間、
「健吾君、手伝ってぇ〜」
調理部隊からお声がかかった。
転勤してからは年に1度会うか会わないかの親戚たちだったが、この頃になるとすっかり俺も彼らと遠慮会釈のない関係を築けていた。
ほいほいと軽く腰を上げ、一員であることを喜ぶ。
…などという気分は、一時間で吹っ飛んだ。
忙しい!
次から次へと焼き物に勤しむ俺。
うがー
何しに来たんだ俺は。
恵子ちゃんと話してぇ。
しかしそんなレクレーションはとんと巡ってこない。
たまに恵子ちゃんが給仕として出来上がった料理をとりに来たが、汗だくになって調理している俺に、
「ご苦労さま(爆笑)」
一言声をかけ、すぐに女性陣の輪の中に帰っていった。
忙しなく手を動かしながら、心の中で指を銜えて“女の園”を眺めた。
「健吾君、少し休みなよ」
恵子ちゃんの父・守さんだった。
これ幸いとばかりに義弟に調理を押し付け、守さんから生ビールを受け取る。
そのままなんとなく守さんとツーショットになった。
実のところ守さんとはこれまであまり話したことがない。
親戚が集まる席といえば決まって酒席で、俺は酒豪ぞろいの彼らといつも馬鹿騒ぎに興じてきたのだが、守さんは下戸のため、正直、話すのが辛かった。
素面の相手と酔っぱらいではノリが違う。
それに守さんは真面目な人だったからちょっと近づきがたくもあった。
しかし親戚連中に強引に勧められたのか、今日はちょっとだけ守さんも酒を楽しんでいたようだ。
顔が少し上気している。
お互い酒が入れば自然と会話も弾む。
話の内容なんて他愛のないものだったとおもうが、小一時間も経った頃、
「ようし、もう“健吾君”なんて他人行儀な呼び方はしない。
健吾!って呼ぶからね」
そう言われた俺は守さんと打ち解けたような気がした。
ブルーシートに大の字になっている守さんに、恵子ちゃんが上着をかける。
そして俺に向き直って言った。
「ちょっと散歩でもしない?森の中に、良いトコあるんだ」
どこへでも行きますとも。
「お父さん、あんなになっちゃうなんてなぁ(笑)」
恵子ちゃんの歩幅に合わせながら、森の中の小道を歩く。
「ごめん。ちょっと調子にのって酒勧めすぎたかな?」
「ううん(笑)たまにはいいんじゃないかな。大した量でもないし」
…たしかに。ビールを紙コップ3杯程度だった。
「きっと嬉しかったの、お父さん」
「俺と話したことが?」
「そう。ウチは私とお姉ちゃんとお母さんで女だらけでしょ?
だから男同士の会話っていうのに飢えてるんだと思う」
「なるほどね」
「それにね。お父さん、健吾君のことは前から気にしてたの」
「なんで??」
「さあ(笑)
昔、私と健吾君でよく飲みに行ってた時、実家に帰るたびに健吾君のこと聞かれた」
「…で、なんて答えたん?」
「変な人、って(笑)」
「あっそ(笑)」
「到着」
「おおっ、いいねぇ」
「私のお気に入りなの、ここ。
小さな滝だから、森の静けさを壊さないんだ」
滝壺のほとりにあった大きな岩塊にふたりで腰掛けた。
小さなサンダルを脱ぎ、恵子ちゃんは素足を水の中へと入れた。
ぱちゃぱちゃぱちゃ
いたずらに水を掻く白い足が、戯れる二匹の魚のようだ。
ふたりとも何も言わず、ただ水面と木々と空を眺めた。
恵子ちゃんがその時、何を考えていたのかはわからない。
だが俺は、この心地良い静寂を乱してよいものか、考えていた。
静寂を打ち破る俺の一言。
それはずっと言いたかった一言。
そして今にも言いそうになる一言。
だがここに至っても、俺はまだ踏ん切りをつけられずにいた。
押し黙っていたら、恵子ちゃんが俺の顔を覗き込んできた。
「なに考えてるの(笑)」
驚き、怯み、
動揺が愚かな言葉を紡いだ。
「あ…あのね、恵子ちゃん」
「うん?」
「彼氏、できた?」
自分に呆れた。
呆れてものが言えない。
いや、実際、次の言葉が出て来なかったのだが。
恵子ちゃんの顔が強張った。俺を覗き込むのをやめた。
「そんなこと…健吾君に聞かれたくない」
「そ、そっか」
小さな滝がナイアガラにでもなった気がした。
「そろそろ戻ろっか」
恵子ちゃんはいつもの声音に戻っていた。
俺の右横を歩く恵子ちゃんに顔を向けられない。
かといって前を向いていても道なんて見ていない。
(告白してフラれた相手に「彼氏できた?」なんて…そりゃ聞かれたくないよな)
右肩が重い。右頬が引き攣る。
(本当は…あんなこと言うつもりじゃなかったのに)
傾いた木洩れ陽が視界を濁す。うっとおしい。
(ええい、言っちまえ!)
「あのね恵子ちゃん、さっきのね、あれはね、」
「あ。もうみんな片付け始めてるよ」
いつのまにか森を抜けていた。
戻ってきた俺に母が言った。
今夜は太田家に世話になる予定だった。
「じゃーね、健吾君。今日はご苦労様」
「う、うん。さいなら」
恵子ちゃんの口調は優しかったが、守さんを介抱するその背中は怒ってる…ような気がした。
…いつまでも見てたって仕方ない。
諦めて、お父さんの車に乗り込んだ。
がっかりだ。
自分に。
さすがにみんな疲れていたため飲み直す気はなく、三々五々、各々の部屋で休息をとることとなった。
俺は身体に染み付いたバーベキュー臭を洗い流そうと、風呂をつかった。
身体だけはさっぱりとし、居間に戻ると母が座っていた。
「お茶、飲む?」
「ん。もらうよ」
「今日はお疲れさん」
「ホント疲れた(笑)でも楽しかったよ」
「守さんと盛り上がってたね」
「あんまり飲めないのに付き合わせちゃって、悪いことしたよ」
「よろこんでたよ」
「ならいいけど」
「アンタがいなくなってた時、突然ガバッと起きだして『健吾どこだ〜』って騒いでた」
「マジで?あはは」
「気にいられたね」
「だったらうれしいね」
「恵子ちゃんのこと、好きなの?」
はい、とお茶を差し出しながら、流れるように母が聞いてきた。
視線をTVに固定したまま、平静を装った。
焦点はぼやけていた。
「なんとなく。今日のアンタ見てたらそんな気がしたの」
もはや言い逃れることも、取り繕うことも、俺自身が許さなかった。
「…うん。好き、だ」
まっすぐに母を見た。
「そう」
「うん」
「いつから?」
「ずっと、前から」
母の表情に変化はなかった。
「お父さん(実父)は、知ってるの?」
「いや、言ってない」
「そう…」
ふたりのお茶が冷めていく。
母の目の光が強くなった。
「恵子ちゃんには伝えたの?」
「…ううん…」
光がしぼんだ。
顔を伏せた母の声が小さくなった。
「私たちのこと…考えたから…なのね?」
「………」
廊下を踏む足音がした。誰かが起きてきたのだろう。
「考えさせてたのね…ずっと」
消え入るような声だった。
結局、母はあれ以上なにも言わなかった。
(なんか…言ってほしかったな)
賛成にせよ反対にせよ、何かしら母の言葉が欲しかった。
賛成ならば感謝した。
反対ならば説得した。
昨日、絶好のタイミングを逃してしまった俺は、情けないが俺を後押しする何かを求めていた。
駅まで俺を送るために、お父さんが起きてきた。
玄関へ行き、靴を履く。
と、靴の中に何かが入っていた。
『健吾様』と書かれた小さな封筒だった。
お父さんに見つからないよう、あわててポケットに閉まった。
駅に着くと新幹線の時間にはまだ間があった。
お父さんは発車時間まで付き合うと言ってくれたが、二日酔いで辛そうだったのですぐに帰ってもらった。
なにより、封筒を早く開けたくて仕方ない気持ちもあった。
手近な喫茶店に入り、荒々しく封筒を破った。
中には母からの手紙が入っていた。
あなたの気持ちを聞き、とても悲しく思いました。
それはあなたが恵子ちゃんを好きだということにではありません。
あなたが私やお父さんのことを考え、恵子ちゃんへの気持ちを我慢していたことにです。
あなたには子供の頃から負担ばかりかけてしまいました。
経済的にも、精神的にも。
あなたは私たちの前では決して顔にも態度にも出さなかったけれど、心の中ではとても辛い思いをしてきたのだと思います。
欲しいものも買わず、友達との付き合いも控え、あなたはいつも笑顔でいてくれました。
ごめんなさい。甘えてしまってごめんなさい。
でもその上、恵子ちゃんへの気持ちまで押し殺してきたなんて。
私は自分が情けなくて仕方ない。
いつだったか、あなたと恵子ちゃんが結婚したら、なんて話をした時、あなたの態度から私は冗談だと思っていました。
あなたの本当の気持ちに気づきませんでした。
本当にごめんなさい。
あなたにそんな考えを抱かせてしまって。
でもね。
親というものは子供の幸せを第一に考えるものなのです。
いつもあなたに迷惑ばかりかけてしまい、親として失格な私でも、いつまでもあなたの親でありたい、そう思っています。
こんなことを言える資格はないけれど、あなたがうれしいと、幸せだと思える決断をしてください。
あなたが決めたことは、きっと私にとってもうれしいことだと思っています』
冷めた紅茶に一口も口をつけず、何度も読み返した。
母の手書きの文字に、胸がいっぱいになった。
発車後、何分か経った時、恵子ちゃんの実家の近くが車窓に映った。
(親父も…そう言ってくれるだろうか…)
様々な感情が綯い交ぜとなっていたが、向いている方向はひとつだった。
横浜に戻ると友枝から結婚式の招待状が届いていた。
(順調だな)
並び立つふたりの姿を微笑ましく思い浮かべながら、今夜の仕事のために身支度を整える。
家を出、近所のポストに返信葉書を投函した。
もちろん、“出席”にマルをして。
結婚式に出席するため、職場に休暇申請を出した。
式は8月に入ってすぐ。
お盆休みを避けた日程だったため、許可はすんなり下りた。
一週間の休み。
目的は結婚式と…もうひとつ。
俺は親父に電話を入れた。
「ずいぶんとご無沙汰じゃないか、おい!この薄情者!!」
親父の声は弾んでいた。
「いつも電話を返さなくてごめんな」
「ん、若いうちはそんなもんだ。気にすんな」
「8月、帰省するよ。そん時、メシでも食わないか?」
「おお!わかった!待ってるぞ!」
…自分の都合だけで連絡をとったりとらなかったり。
親父のうれしそうな声に罪悪感を覚えた。
そして8月はすぐにやってきた。
今日のテーマは“親父への告白”。
恵子ちゃんのことを、親父に打ち明ける。
…でも、なんて言ったらいいんだろ。
いや、ストレートに言えばいいじゃないか。
ああ、こんなに悩むんなら電話で話した時に言えばよかった。
いや、こういう大事なことは、会って、顔を合わせて言わないと。
でも、親父の顔を見ながら言えるのか?
そしてなんて言えばいいんだよ?
…エンドレス。
太田家ではお父さんと母と義妹が俺を迎えてくれた。
いつものように和やかな宴会。
母もいつもどおりの笑顔だった。
お開きとなり、義妹が帰った。
お父さんは珍しく酔い潰れてしまった。
寝室に連れて行き、母の片付けを手伝う。
食器を運び、台所の母にバトンタッチする。
ふと手を休め、母の背中に言った。
「明日、親父に会うよ」
洗い物を続けながら、母が顔だけをこちらに向けた。
「そう」
笑顔だった。
「うん」
本当は『ありがとう』と言いたかったのだが、片付けに戻った。
そこは親父のアパートから程近くにある小料理屋。
中年夫婦だけで切り盛りしているこじんまりとした店で、よく親父が晩飯に利用していた。
俺も2〜3度、一緒に来たことがある。
(ここなら落ち着いて話ができるな)
親父は仕事で少し遅れていた。
カウンターで持て余していた俺に、顔を憶えていてくれた旦那さんがビールとつまみを出してくれた。
今日は暑かったからビールが美味い!…はずなのだが、冷たいだけで味がしない。
俺は緊張していた。
この期に及んでもまだ、これからの行動に自信が持てなかった。
ほどなく親父がやってきた。
俺の姿を認めるや、ニコニコとした笑顔で向かってくる。
俺は顔を背けた。
「大将!奥、いいかい?」
旦那さんの快諾を得、カウンターから奥の小上りへと移動した。
「女将さん、憶えてるかな?俺の息子。今、東京で働いてるんだ」
オーダーをとりにきた女将さんに、嬉々として、誇らしげに俺の話をする親父。
(年とったなぁ…)
アーノルド・シュワルツェネッガーのような筋骨隆々の体躯は今も変わらないが、頭髪はきれいに銀髪になっていた。
顔に刻み込まれたシワが、笑顔と共に一層目立った。
この笑顔が消えてしまうかもしれない話。
俺は今からそれをする。
くじけそうになる気持ちを、必死にささえた。
…未だ切り出せない。
だが突破口は他ならぬ親父が開いてくれた。
「この間、千夏と陽子から電話がきてなぁ」
千夏・陽子とは、亜矢(実妹)の娘たちのことだ。
「子供の日にオモチャ送ったから、その礼の電話だったんだけど」
親父の目尻は下がりまくっていた。
「年に一度くらいしか会わない俺に、じいちゃん、じいちゃん、ってなぁ」
「かわいいな」
「ああ…かわいい。…だけど、ちょっとさみしくなってしまった」
「なかなか会えないからか?」
「距離の問題じゃなくてな…所詮、あの子たちは他所様の内孫だ。会いたくても、おいそれと頻繁に会うってわけにもいかないから、さ」
「そんなに遠慮しなくてもいいじゃんか。親父にとっても孫なんだから」
「そういうもんなのさ」
「ふーん」
「だからお前に期待してんだよ、俺は(笑)」
「ん?」
「いつになったら俺は内孫持てるんだ?(笑)」
「孫って…その前に嫁さん見つけなきゃいけないだろが」
「そうだよ、それだよ。見つけたのか?」
「………」
「なんだよ、浮いた話のひとつもないのか?」
「………あるよ」
「おお!?やっとこさ彼女できたか!!」
「いや、彼女ってわけじゃ…。ただ…好きな人がいるんだ」
降ってわいたキッカケに俺は飛びついた。
思いつくまま、恵子ちゃんのことを語った。
彼女の人となり。
彼女に告白されたこと。
それを無碍にしたこと。
そして、
彼女が母の縁者であること。
何もかもを素直に、ありのまま、夢中でしゃべった。
気がつくと、親父はじっと下を見つめながら黙りこくっていた。
(あ………)
やはり…ダメか。
親父の表情は見えなかったが、
突き刺さる沈黙に俺の口も動くのをやめてしまった。
その瞬間だった。
どん、と俺の頭に鈍い痛みが走った。
親父が、身を乗り出して俺の頭にゲンコツを落としていた。
拳を引き、無言で親父が俺をにらみつけている。
何が起こったのかはわかっていた。
母の縁者に惚れた俺に、親父が激怒したのだ。
…と、思っていた。
しかし、ようやく吐き出された親父の言葉は、俺の理解したものとは違っていた。
「………」
「お前の結婚は、お前の問題だろ?好きにすりゃいいだろうが!!」
「………え?」
「それを…俺と母さんのことで…そのコの気持ちまで踏みにじるなんて…!…お前も俺も、情けねぇ!」
親父は怒っていた。
けれどそれは、優しい怒りだった。
「俺や母さんのことを心配してくれたお前の気持ちはうれしい。
だけどな、それは親孝行じゃあ、ないぞ。
お前は、お前のことだけを一番に考えてくれればいい。
お前が選んだコなら心配はない。
こう見えても俺、お前のこと信用してるんだぞ(笑)」
鼻の奥が痛い。瞼が熱くなった。
「健吾、しあわせになってくれ」
とどめ。もう耐えられない。
「泣くな馬鹿。いい歳こいて(笑)」
小さな店でよかった。
この顔はとてもじゃないが人前に出せない。
がびがびになった顔を隠しながら店を出た。
さっきの余韻が抜け切れなくて、俺は一言もなかった。
親父は口笛を吹いていた。
ふいに、親父が俺の頭を撫でた。
「な、なんだよ!?」
「痛かったか?」
「ん?ああ、…ああ(笑)」
「ふふん…ばかやろ(笑)」
「うん(笑)」
「母さんも、賛成してくれたんだよな?」
「うん。同じようなこと言われた」
「そうか。…今度、彼女に会わせろよ」
「うん、もちろん」
「…といっても、もうお前、彼女に見限られてるかもしれんな(笑)」
「やっ、やなこと言うなよ!」
「ふふ。早めに会えよ」
「うん」
親父がまた口笛を吹き始めた。
親父が部屋に入っていくのを見届けた後、表通りに出てタクシーを拾った。
乗り込むや否や、どっと倦怠感が押し寄せる。
だが心地よい気だるさだった。
そっと、頭のてっぺんに手を当てた。
…膨らんでる。
恐るべし、アーノルド。
もうすぐ還暦を迎えるというのに。
じわじわと、小さな痛みを自覚した。
笑いがこみ上げてくる。
(30過ぎて…親父の鉄拳制裁を食らうとはな)
高校の時以来のこの痛みが、大切なものに思えた。
待っていたのだと思う。
「おかえり。…お父さん、元気だった?」
「うん」
「そう。…で?」
「話したよ」
「うんうん。それで?」
「怒られた。んで、殴られた」
「え!?」
「俺のことなんて心配してんじゃねぇ、って」
「ああ…なんだ、びっくりしたぁ。…そっか。そっかぁ!」
緊張していた母の顔が緩んだ。
「よかったねぇ」
「うん…ありがとな」
母が笑顔で頭を振った。
出されたお茶をしみじみすすっていたら、母がいつもの軽口に戻った。
「でもさ」
「うん?」
「恵子ちゃん、もう彼氏できてたりして(笑)」
親父と同じようなことを言う。
いや、そんなこと………あり得る、あり得るよなぁ。
にわかに不安感が湧いてくる。
無意識に湯呑みを握り締めていた。
お父さんも母もとっくに仕事に出ていた。
居間のテーブルの上に母のメモ書きがあった。
『ごはんはテキトーに』
考えてみれば今日はまだ平日。休みなのは俺だけ。
ちょっとした解放感に、スキップしながら台所へ行った。
冷蔵庫を漁り、朝飯にありつく。ついでに缶ビールも失敬。
昼間のアルコールはよく効いた。
寝転がってテレビを観ながら、贅沢な閑暇を味わった。
ふと女性タレントに目がいった。
以前から恵子ちゃんに似ていると思っていたタレントだった。
親父と母の予言(?)が脳裏をよぎる。
がばっと跳ね起き、携帯を手にとった。
(昼休みだよな)
1…2…3…4…。
10コールを数えても恵子ちゃんは電話に出なかった。
留守電に繋がる。
けれどメッセージは吹き込まなかった。
1時間後。
また恵子ちゃんの携帯に電話した。
(もしかしたら、休憩は1時からかも)
あきらめが悪い。
しかし結果は同じだった。
缶ビールは5本目に入っていた。
悲観的な考えばかりが頭に浮かぶ。
明らかに酔いが手伝っていた。
(夜にしよう)
昼寝した。
すぐにでも恵子ちゃんに電話したい気持ちを抑え、夕飯をとる。
食事の最中、携帯が鳴った。
もしやと思い、画面を見ると案の定、恵子ちゃんからだった。
「あ、職場からだ」
棒読み。
今更、母に嘘をつかなくてもいいのだが、この時はわけのわからない恥ずかしさがあった。
足早に2階の部屋へと移る。
「昼間、電話くれたんだねー。ごめんね」
「こっちこそごめん。休憩中だと思って」
「そうだったんだけど気がつかなかった(笑)」
「そか(笑)」
「元気?そっちは死ぬほど暑いでしょ?」
「実は今、一足早く帰省中なんだ。土曜日に同僚の結婚式があって」
「そうなんだー」
「うん。それで、日曜日までいるつもりなんだけど、それまでの間、よかったらメシでも一緒にどうかなって」
「あ、なら明後日の金曜日はどう? 土曜はウチの会社休みだから、私も気兼ねなくゆっくりできるし」
「気兼ねなくゆっくり飲めるし、の間違いだろ(笑)」
「そうそう…ってオイっ!(笑)私最近、お酒飲む量少なくなったんだよお」
「年のせい?(笑)」
「ちーがーいーまーすー(笑)耳の薬のせいだもん」
「え?耳って…ずいぶん前に三半規管の病気になったってやつ?
あれって治ったんじゃなかったの?」
「ううん。今もバリバリ継続中(笑)」
「そっか。 以前、快方に向かってるって聞いたから、てっきり完治したのかと思ってた」
「お医者さんには完全には治らないって言われたの。 まあ、たまにめまいとか頭痛がする程度で、日常生活に支障はないんだけどね。 薬を飲みつつ、一生付き合っていくって感じ」
「その薬が酒と相性悪いの?」
「飲んでもいいけど量は抑えなさいって言われた」
「なるほど」
「だから、私の目の前であんまり飲まないでね。誘惑に負けちゃうから(笑)」
「わかった。すっごく美味しそうに飲むことにする」
「わかってないじゃん!(笑)」
兎にも角にも、約束をとりつけた。
(決戦は金曜日、なんて歌があったな)
俺の大好きな言葉“悶々”がもうすぐ消滅する。
どちらに転ぶにせよ、だ。
あの日、俺は何をしていたのだろうか。
最後の“悶々”を楽しんでいたのだろうか。
思い出せない。
だが確実に24時間は過ぎ行き、俺にとって生涯忘れえぬ金曜日が訪れた。
家にいても余計なことを考えるばかりなので、日中から街に出た。
しかし、何をしていればいいのか思いつかない。
映画館に行ってみた。
ストーリーがまったく頭に入らず、1800円をドブに捨てた。
本屋に入った。
知らず知らずのうちに恋愛ハウツー本を手にとっていた。
しかもよく見ると女性向けだった。
喫茶店で休んだ。
ぼーっと、恵子ちゃんのことを考えた。
…なんだよ。
これじゃ家にいるのと同じじゃないか。
散々、街を彷徨ったのに約束の時間までまだ一時間もある。
…酒の力を借りよう。
決戦に備えて景気づけにもなる。
友枝とあの時行ったバーへと向かった。
開店まもない店内には客の姿はなかった。
いつものバーテンが「お久しぶりです」と俺を迎えた。
「待ち合わせ前なんで、一杯だけもらえますか?」
「はい。何になさいます?」
しばし考える。
思いつくのはひとつしかなかった。
「この間いただいた“両想い”、アレ…いいですか?」
カップルにしか出さないというカクテル。
しかしバーテンは
「憶えていてくださって、ありがとうございます」
快く応じてくれた。
淡いピンク色の水中を、ビーズのような気泡が踊っている。
今日は自分のために飲む。
軽く願掛けした。
その様を、バーテンが微笑みながら見守っていた。
なんだか気恥ずかしい。
ちびりちびり、じっくりと時間をかけて飲み干した。
「次回は2つ、お出ししたいです」
店を出る時にかけてくれたバーテンの声が、とても心強かった。
時間ぴったりに、恵子ちゃんは待ち合わせ場所へと現れた。
久々に見る恵子ちゃんのスーツ姿。
…タイトスカートって、いいなぁ。
「行きたいお店があるの」
恵子ちゃんの先導で向かった店は、初めてふたりで食事をしたあの店だった。
ひとり、気分が高揚する。
なんだか恵子ちゃんにお膳立てをしてもらっているようだ。
その日のオススメのワインをオーダーし、乾杯した。
俺はその杯に、またふたりでここに来れたことへの祝杯を重ねた。
「電話ではああ言ったけど、気を遣わないで飲んでね」
彼女の気遣いが愛おしかった。
だが今夜は俺も酒は控えるよ。
飲んだくれてる場合じゃないんだもん。
今日ここで、すべてが決まる。
終わる。終わらせる。
しかしそんな意気込みも束の間、一時間も経つ頃には俺の心は苛立ち始めた。
望む方向に会話を持っていけない。
なんとも色気のない話ばかりが続いた。
楽しいんだけど…いや、楽しいからこそタチが悪い!
「デザートでも頼もっか」
彼女に品書きを渡し、無理矢理、会話を中断した。
流れに変化をつけようと必死だった。
“デザート作戦”は功を奏し、恵子ちゃんはデザート選びに夢中になった。
ようやくシンキングタイムを手に入れた。
…しかし、どうしたものか。
切り口がわからない。
大体、こんな公衆の面前で女性に告白したことなんて今まで一度もない。
気の利いた言葉がひとつも浮かんでこない。
どうしよう。
どうしよう。
「はい。私は決まり。健吾君はどれにする?」
時間切れ。
「じゃ、じゃあ、俺は〜」
“イチゴとバナナの井戸端会議”なるものを注文した。
気づくと11時をまわっていた。
「そろそろ出よっか。終電も近いし」
おとなしく従った。
だがあきらめたわけではない。
駅までの道のりは徒歩10分。
当初の予定とは大幅に異なってしまったが、この際、四の五の言ってられない。
歩きながら、だ。
「あのね」
うわっ。
…恵子ちゃんに言葉を盗られた。
「実は、ね」
ここまでは俺の言いたいことと一緒だった。
「今、交際申し込まれてるの」
噴き出した脂汗が夜風に撫でられた。
(ああ、気持ちいいなぁ)
などと考えていた。
現実に向き直った。
「同い年の、会社の人。職場でよく遊びに行くメンバーのひとり」
「じゃ、お互いによく知ってる仲なんだ…」
「うん」
「…恵子ちゃんは、その人のことどう思ってるの?」
「うん…すごく、いい人。ただ…」
「…ただ?」
「結婚を前提にって、言われたの」
熱帯夜、俺だけが凍りついた。
どうにか、口だけ解凍する。
「そ、そりゃ余程、恵子ちゃんのことが好きなんだねぇ」
「………」
「それで…ど、どうなの?」
「なにが?」
「い、いや、なにがって…悪い気はしないんでしょ?その人のこと」
「…わかんない。
今まで仲の良い友達だと思ってたから…そんな風に見たことなくて」
「そうか…」
「ねぇ、健吾君。
男の人って、付き合う前からいきなり結婚を意識するものなの?」
「そんなの…男も女も関係ないと思うよ。
恵子ちゃんとその彼の間には、今まで身近に接してきた時間があったわけで、その中で彼が、恵子ちゃんを『この人だ!』って、感じたということでしょ?
付き合う前の時間だけで、彼には充分だったんじゃないかな?」
なにを真剣にアドバイスしてるんだろ、俺。
「男女の仲になる前に…ってのは少し性急かもしれないけど、
恵子ちゃんの良さに気づいたんだから、その彼、見る目ある人だと思うよ」
「やだなぁ、いつもの健吾君らしくないよ(笑)オチがないじゃん(笑)」
「いや、冗談じゃなくて(笑)」
本心なんだ。
「いや…大したコト言えてないけど…」
「ううん…そうじゃなくて。…ありがとう」
?
どういう意味か聞きたかったが、すでに改札の前まで来ていた。
「送ってくれてありがと!ここでいいよ」
「うん…」
最終電車が来るまでまだ5分くらいあった。
引き止めたい。
何か話題は………何か話題を…。
「じゃ、健吾君。さよなら」
俺の言葉は、待ってはもらえなかった。
…これで終わりか?
改札の向こう、恵子ちゃんが笑顔で手を振っている。
………。
あわててSuicaを取り出し、改札に叩きつけた。
「送る。ホームまで」
「え? いいよぉ(笑)」
「いいから…いいから…」
恵子ちゃんが眉をひそめて俺を見つめた。
ホームには最終電車がもう止まっていた。
時間調節しているようだ。
恵子ちゃんは電車の中。
俺は白線の上。
「じゃあ、これでほんとにさようなら(笑)」
さようなら、って、こんなにさみしい言葉だったんだ。
発車のアナウンスが、俺の背中を押した。
俺は電車に飛んだ。
すぐにドアは閉まった。
口をポッカリ開けて、恵子ちゃんが唖然としている。
「乗っちゃった(笑)」
「な、健吾君、なにしてるのぉ!?」
恵子ちゃんの口を見た。
「ごめん、恵子ちゃん。次の駅で、降りてくれ」
恵子ちゃんの口が「うん」と言ってくれた気がした。
俺も恵子ちゃんを見つめ、決して負けなかった。
扉が開き、トン、と足をホームに下ろした。
すかさず振り返る。
ちゃんと恵子ちゃんも後に続いていた。
電車が出発するのを待つ。
電車が去った。
他の乗客がホームからいなくなるのを待つ。
いなくなった。
恵子ちゃんはずっと黙っていた。
「恵子ちゃん」
「…はい」
「さっきの彼氏の話、断ってください!」
「………」
「俺、恵子ちゃんのことが、好き、です」
恵子ちゃんが俺を見上げている、気がした。
震える四肢。
「もし、恵子ちゃんが俺のことを、ま、まだ、想ってくれてるなら、お、俺と…つきあ…てく…さい」
最後のほうの言葉は恵子ちゃんの言葉でかき消された。
「…自惚れてるなぁ(笑)」
絶句。
多分、金魚のような顔をしていたに違いない。
うわーうわーうわー。
やっちまった。やっちまったよ、おい。
とんだ勘違い野郎だったんだ、オレ…。
「でも」
視線を泳がせていた俺の鼻に、恵子ちゃんの匂いが流れ込んできた。
「ずっと…自惚れててください」
恵子ちゃんが俺の腰に両腕を回していた。
砂糖菓子のように容易く砕けそうな肩が、俺の左手の中にある。
俺は恵子ちゃんを抱きしめていた。
恵子ちゃんの匂いが俺をくすぐる。
出会った時から変わらない、いつもと同じ香り。
両腕に、もっともっと力をこめたくなる。
「ごめんねぇ。そろそろ、ホーム閉めたいんだけど(笑)」
ふたりとも、ビクッとなった。
すぐそこで、駅員のおじさんが笑っていた。
お互いにお互いの顔の赤さを認めつつ、
「す、すみませんでした!」
ふたりで改札まで駆けた。笑いながら。
今度はもっとちゃんと、もっとやさしく。
10分。
灯りも消えた駅の入口に、ふたり、佇んだ。
このままいつまでも恵子ちゃんの髪を撫でていたかったが、思い切って、身体を離した。
恵子ちゃんが俺を見上げた。
たまらず、また抱き寄せてしまった。
三度、恵子ちゃんの匂いを思いっきり吸い込んだ。
くすくすと、恵子ちゃんが笑った。
「すっごくクンクンしてるね(笑)」
「うん(笑)恵子ちゃんの匂い、好きだ」
後から聞いたのだが、アリュールという香水だそうだ。
飽きることなどなかったが、さすがに今度はちゃんと身体を離した。
代わりに恵子ちゃんが指を絡めてきた。
つないだ手を子供のように振りながら、ふたり歩き始めた。
「…ごめんな。変なところで降ろしてしまって…」
ようやく頭が冷静に考えることを思い出した。
「ううん…うれしかったから…いい」
「俺もすごくうれしい」
「…照れるね(笑)」
「照れる(笑)」
照れてばかりもいられない。
「どうしよ?また街に戻ってどこかで飲む?」
「うーん…」
恵子ちゃんが俺の顔を覗き込んだ。
「あのね。敏夫叔父さん(お父さん)のとこ、行きたい」
そう言うや否やすぐに顔を伏せた恵子ちゃんの耳は、暗がりでもはっきりとわかるくらい、真っ赤だった。
「…わかった。行こ!」
すぐさまタクシーを拾った。
明日はお父さんも母も休みだから夜更かししているのだろう。
玄関の鍵は開いていた。
「ただいま!」
ことさら元気に扉を開けた。
出迎えた母が俺たちふたりを見て目を丸くした。
「ふたりで飲んでたんだ。調子にのって、終電間に合わなくしてしまって」
とってつけた言い訳。
だが母は気にするでもなく、うれしそうに恵子ちゃんを中へと誘った。
居間に行くと、お父さんがテレビ画面に張り付いていた。
どうやらこの夫婦はテレビゲームに熱中していたらしい。
…このふたりも来年、還暦を迎えるのだが。
お父さんも母同様、俺たちを見て驚いた。
俺は同じ言い訳をした。
「今夜は泊まってもらいますから」
母が恵子ちゃんの実家に電話を入れてくれた。
4人で茶を飲む。
無言。
だがお父さんも母もニコニコと俺を見ている。
恵子ちゃんから湯気が出そうだった。
(…バレバレじゃないか(笑))
もとからそのつもりだ。
用意していた台詞を口に出した。
「俺たち、付き合うことにしました」
お父さんと母の顔がパーッと輝いた。
「おお!そうかぁ、そうかぁ」
お父さんがはしゃいでいる。
「よかったねぇ、よかったねぇ」
母がティッシュを鷲掴みにして顔を拭っていた。
恵子ちゃんは恥ずかしそうに湯呑みを弄んでいた。
お父さんの車を借りて送るつもりだったのだが、
「午後からお友達の結婚式でしょ?
それまで休んでて。昨日は遅くまで起きてたし」
という恵子ちゃんの言葉に甘えさせてもらうことにした。
彼女が帰った後、恵子ちゃんの実家に電話を入れた。
恵子ちゃんの母・浩美さんが出た。
「すみません。昨晩は恵子ちゃんを連れまわしてしまって」
「いいええ。健吾君なら安心。また誘ってあげてね」
安心…か。
(早いうちに恵子ちゃんの両親にも挨拶しなきゃな)
少しも気は重くはならず、むしろその日を焦がれた。
式から参列することになっていたので、早めに式場へと向かった。
郊外の大きなレストランが式場だった。
レストランウェディングというやつだ。
東京などでは珍しくないが、まだまだこの街では目新しい。
控え室で待っていると、友枝が顔を見せた。
俺の姿を認めるや、小走りに駆け寄ってくる。
「おおおつかさぁぁぁん」
予想を裏切らず、友枝はガチガチに緊張していた。
真夏とはいえ、空調のきいた室内なのに、燕尾服の襟元が汗でびっしょりだ。
「だいじょうぶかぁ?」
「気持ち悪いです。吐くかも」
「緊張してるだけだよ。しっかりせい(笑)」
「ダメです。吐いてきます」
そそくさと友枝が手洗いへと消えた。
どうやら式に参列するのは新郎新婦の友人がメインのようで、会社関係は俺と上司だけだった。
上司と話しているのも飽きた俺は、式場内を当て所もなくうろついた。
覗いてみると、女友達に囲まれている芽衣子さんの姿があった。
純白のウェディングドレスが、窓から差し込む陽光にやわらかく包まれていた。
美しい。
この姿を見て、ため息の出ないヤツなどいないだろう。
見惚れていたら、芽衣子さんも俺の姿に気づいた。
何か言いたげに、首を伸ばしている。
近くに行きたかったが、デジカメや携帯を手に群がる女性たちに気圧され、(また後で)と手を振り、部屋を出た。
廊下で友枝と再会した。
文字通りスッキリとした顔だった。
「大塚さん!芽衣子さん、もう見ました?」
「うん」
「綺麗でした?綺麗でした?俺、まだ見てないんです」
軽〜く、友枝の頭をひっぱたいた。
「ああっ、セットが!セットが!なにするんスか!?」
「さっさと行け(笑)」
芽衣子さんの部屋の方向に、友枝をドンと押してやった。
やっぱりというか、式の間中、ずっと友枝は泣いていた。
芽衣子さんはこれ以上ないくらいやさしい顔で、友枝の顔にハンカチを宛がっていた。
ふたりの姿に、参列者から微笑みがもれた。
(でも…俺も泣いちゃうかもしれないな)
ブーケを投げる芽衣子さんの姿に、未来をダブらせた。
披露宴から合流した同僚たちと、友枝を囲み、冷やかす。
いまだ興奮冷め遣らぬ体の友枝だったが、酒と時間がいつもの彼を呼び覚ましていった。
「大塚さぁん、今日は何の日か知ってますう?」
しな垂れかかっていた友枝が顔を近づけてきた。
「お前が裏切り者になった日(笑)」
「なんスか裏切り者って!大塚さんもさっさと独身にオサラバしなきゃダメっスよ」
「わかってるよぉ。早くお前のお仲間になりた〜い(笑)」
「んふっふっふ」
「なんだぁ?気色わりーな」
「だいじょーぶ。大塚さんも結婚できます」
「他人事だと思って(笑)」
「今日はね、大安じゃないんスよ」
「そーなの?…でも、だから?」
「友引っス」
友枝が俺の肩をバンバン叩いた。
「友引に結婚式すると、来てくれた人も結婚できるんですって。
感謝してくださいよう!
大塚さんのために、わざわざ大安避けて今日にしたんスからぁ」
「そっか。ありがとな」
「てことで、今日はがんばってください!芽衣子さんの友達いっぱいきてるんスから」
友枝。
もう、がんばらなくてもいいんだぜ、俺。
友人や同僚から解放された芽衣子さんが俺のもとへとやってきた。
「だいじょうぶ?疲れたんじゃない?」
「うん、だいじょうぶ。健吾君、今日は本当にありがとう」
「いやいや。…あ。こっちこそ、ありがと(笑)」
「え?」
「わざわざ“友引”を選んでくれたんだってね。聞いたよ(笑)」
「ああ(笑)すっごく彼こだわってたの、友引に。
『縁起でもかつがないと大塚さんは結婚できない!』って(笑)」
「失礼な(笑)」
「ねぇ(笑)」
友枝を見、ついで芽衣子さんを見た。
「…いいヤツだよな」
「でしょ?」
芽衣子さんのノロケがうれしかった。
「健吾君、これ…」
芽衣子さんが小さな紙包みを差し出した。
中には黄色い花が一輪入っていた。
「ブーケに使った花。メランポジウムっていうの」
芽衣子さんが花をやさしくつまみ、胸のポケットチーフにそっと挿してくれた。
「健吾君にあげたかったんだ」
“友引”と“メランポジウム”
ふたつの想いに応えたいと思った。
「芽衣子さん。
俺もねぇ…芽衣子さんに招待状を送れると思う。
まだまだ先の話になると思うけど…」
口をついて出た自分の言葉に照れ、俯いてしまった。
芽衣子さんの声が1オクターブ高くなった。
「ホントに!?…じゃあ…なのね?」
「うん」
「…よかったぁ…」
ウンウンと、芽衣子さんは何度も頷いていた。
お互いに、おめでとうと言い合った。
腕に絡まる友枝を芽衣子さんに押し付け、熱帯夜の街に出る。
時刻は8時を回っていた。
今一番聞きたい声を求めて、携帯を手にとった。
「お疲れ様」
ああ、恵子ちゃんの声だ。
もう俺はメロメロだった。
更なる欲求に引火する。
「会いたい…なぁ」
「会えるよ」
事も無げに恵子ちゃんが言った。
「今ね、健吾君の近くにいるの。友達と会ってたんだ。今、別れたから…」
「すぐ来て!今来て!早く来て!」
電話の向こうで恵子ちゃんが爆笑していた。
「会いたい」と言えることに感動した。
(“言える”関係になったんだ)
改めて昨夜の喜びを反芻した。
奥の席に座る恵子ちゃんに近づいていくと、自然に目が合った。
お互いの顔がほころぶ。
俺はどうしちまったのか。
十代の時のような、ふわふわとした感覚。
口にするのも恥ずかしい言葉が頭に浮かぶ。
ときめき。
落ち着いて、冷静に、衝動を抑えながら、恵子ちゃんの向かいに座った。
「お疲れ様!」
満面の笑みで俺を迎えてくれた恵子ちゃんの目線が、俺の顔から胸へと移動した。
「そのお花、最初から差して行ったの?」
「ん?ああ、違う違う(笑)もらったんだ、結婚式で」
「ああ、そっか。なるほど(笑)」
「ガラじゃないなって、思ったんだろ?(笑)」
「うん(笑)」
「(笑)メランポジウムって言ってたかな。ブーケに使った花だって」
「へぇ」
「…恵子ちゃん、これね」
「ん?」
「花嫁さんにもらったんだ」
なぜか、きちんと話しておかなくてはと思った。
「その花嫁さん、昔、俺が付き合ってた人なんだ」
「転勤の時に見送りに来てた人?」
「…憶えてた?」
「うん」
一瞬、場が凍りついたような気がして、慌てておどけた。
「や、妬ける?」
俺の馬鹿な質問に、恵子ちゃんは平然としていた。
「ううん。全然」
そして恵子ちゃんがニコリとして言った。
「だって、これからは私が健吾君のとなりにいるんだもん」
テーブルを飛び越え、恵子ちゃんに抱きつきたかった。
だが代わりに憎まれ口を言って我慢した。
「なぁんだ。つまんねーの(笑)」
「御生憎様(笑)」
チラチラと時計を見出した俺に恵子ちゃんが言った。
「まだ時間だいじょぶだよ。今日、車で来たし」
「いや、二日連続で俺のせいで帰り遅くするのは…。守さんたちも心配するだろうし」
伝票を持ってレジへと向かう。
のそのそと恵子ちゃんが後に続く。
視線を感じる。
じーっと俺を見てる。
なんとかかわして外に出た。
「さて…帰ろっか」
「やだ」
間髪いれずに恵子ちゃんが遮った。
ダダをこねるなんて珍しい。いや、初めてのことだ。
「やだって…そんな(笑)」
「だって…」
「だって今日、初めてのデートなんだよ?恋人同士になって初めての!」
そっか。そうだった。
言われてみればそうだった。
恵子ちゃんが俺を見上げていた。
その瞳の中、ネオンがくるくる廻る。
2、3メートル先、隣の雑居ビルの非常階段まで恵子ちゃんの手を引いた。
向き直り、ぎゅーっと抱きしめた。
こんちくしょーめ、可愛いなぁ!
「恵子ちゃん」
「…ん」
「やっぱり今日は帰ろう」
「………」
「その代わり」
「?」
「俺も恵子ちゃんの家に連れてって」
腕の中で俯いていた恵子ちゃんが、がばっと顔を上げた。
「んえっ!?」
その滑稽な声と表情に、腹を抱えて笑ってしまった。
「なに笑ってんのっ!?…ていうか、なに言ってんの!?」
目頭と痛む腹を押さえ、動揺する恵子ちゃんをもう一度抱きしめた。
「ちゃんとね…守さんたちに挨拶しときたいんだ。
お付き合いさせてもらってます、って」
「えっ!?いいよぉ、そんなの(笑)」
「まだ早い?」
「ううん、早いとかじゃなくて…。
ウチの親、そんなに形式張ってないから、だいじょうぶだよ?」
「俺がね、ちゃんとしときたいんだ」
我ながら相変わらずアタマのカタイ奴だと思ったけれど、
ほんの一拍の後、恵子ちゃんが頷いてくれた。
ふと車窓を流れる街灯を見送りながら、俺は自分に起こっている変化に気づいた。
なんだか恵子ちゃんとの会話に熱が入らない。
会話がブツリブツリと途切れる。
そのうち、押し黙ってしまった。
この緊張はなんだ?
まるで、結婚の挨拶に行く時のような…。
馬鹿な。
そんな大仰なものじゃないだろうに。
何度も自分に言い聞かせたが、
一度意識した心が、頭の命令に従うはずもなかった。
エンジンを止めた恵子ちゃんが、俺をまじまじと見つめている。
右顔面にその視線を感じてはいたが、俺は彼女に向き直ることも出来ず、フロントウインドウに熱い視線を投げ続けた。
「だいじょうぶ?」
看破されていることにたじろぎ、うろたえ、虚勢をはった。
「な、なにが!?…さ、さあ、行こう!」
恵子ちゃんに一瞥もくれず、玄関へとまっすぐ進んだ。
しかし…扉を開けられない。チャイムに手が伸びない。
恵子ちゃんが一歩後ろで俺の様子を見ていた。
振り向き、懇願した。
「…ごめん、開けてぇ」
恵子ちゃんが、手で口を押さえながら笑いをかみ殺している。
彼女の気が済むまで俺は待った。
ようやく笑いを終わらせてくれた恵子ちゃんが、ゴホンとひとつ咳払いをして扉を開けた。
緊張復活。
「ただいま〜」
出迎えたのは浩美さんだった。
「あら、健吾君!?恵子を送ってくれたの?」
「い、いえっ、運転してたのは恵子ちゃんで、あの、その」
「とにかくあがって」
もう堪えられないとばかりに恵子ちゃんが吹いた。
ちょっと恵子ちゃんが小憎らしくなった。
居間に通され、茶を出された。
石像のように固まっている俺を見て、相変わらず恵子ちゃんは肩を震わせている。
浩美さんが台所に行った隙に、軽く恵子ちゃんの首を絞めてやった。
またも恵子ちゃんが吹き出した。
「おお、健吾君!よく来たよく来た!」
「す、すみません、またこんな遅くまで恵子ちゃんを引っ張りまわしてしまい…」
「うんうん。これからも誘ってやってね」
「は、はい。もちろんです…」
沈黙には到底耐えられそうにない。
俺は矢継ぎ早に言葉を続けた。
「それで…あ、あの俺、
恵子ちゃんとお付き合いさせていただきたくて…今日…来ました」
伏せていた目を恐る恐る上げ、守さんと浩美さんを見た。
ふたりともキョトンとしていた。
「え…いや、ずっと前から付き合ってたんじゃないの?」
守さんの言葉に驚いた。口から何かが出ちゃうんじゃないかと思った。
「いやぁ、てっきりそうなんじゃないかと思ってたんだけど。
でもふたりの口からちゃんと聞くまでは、余計な口は挟まないようにしようって、私ら話してたんだよ」
「え…いえ、正式には昨日からで…」
「ああ、そう!そうかぁ、そうなのかぁ」
守さんと浩美さんが微笑みを交わしていた。
「これからもよろしくね、健吾君」
すぐには頭の整理がつかず、恵子ちゃんを見た。
あんぐりと恵子ちゃんは口を開け、呆けていた。
俺の視線に気づき、恵子ちゃんも俺を見る。
ふたりの口に笑みが浮かび、やがて大笑いした。
(やった!やった!やった!)
ひとりだったら、踊り狂っていたと思う。
かろうじて電車もあったし、なにより『厚かましいヤツ』と思われたくなかった。
守さんたちがそんな人たちではないことはよくわかっていたが、少しでも良い印象を与えたかったのだ。
相変わらず些細なことを気にするヤツだった。
再び恵子ちゃんの車に乗り、駅に向かう。
車が走り出すと同時に、ふたりとも口を揃えて言った。
「…びっくりしたねぇ」
また笑い合った。
落ち着き、余裕を取り戻した頭が考えた。
(あのまま…“結婚を前提に”って言っても、よかったんじゃないだろうか?)
…いやいや、いくらなんでもそれはまだ早いな。
恵子ちゃんの気持ちもあるし。
心の中でかぶりを振っていたら、恵子ちゃんがまた俺の心を見透かした。
「なんだか…結婚の挨拶みたいだったねぇ(笑)」
驚き、恵子ちゃんを見る。
俺の視線に照れたのか、自分の言ったことに照れたのか、恵子ちゃんはあわてて顔を右ななめ前方へと向けた。
そのさまに俺までも照れてしまい、俺も左ななめ前に顔を向けた。
しばし間をおき、振り絞る。
「でも……いつか、…いや………いずれは…」
そうなったらいいなぁ…と、言葉を続けようとしたが、
「ま、まぁ、先のことはわからないし…
…恵子ちゃんも…恵子ちゃんが…よければ…」
歯切れの悪い言葉が続く。
だが恵子ちゃんの一言が、終止符を打った。
「早く結婚してくれ(笑)」
首がねじ切れるほどの勢いで恵子ちゃんを見た。
彼女は相変わらず明後日の方向を向いている。
「ほ、ほら、私も若くないし…もうすぐ35歳だし…
あ、ほら35って、四捨五入すると40なんだよぉ…だから…だから…」
慌てて取り繕った言葉に、恵子ちゃんの照れが見えた。
こみあげる、今日、何度目かわからない高揚感。
「恵子ちゃん、車止めて」
なぜ?とも聞かず、言われるまま恵子ちゃんは車を路肩へと止めた。
いまだにそっぽを向いている恵子ちゃんの顎に、そっと手を添えた。
くるりと彼女が俺に向いた。
刹那。
彼女のくちびるは俺のものに。
俺のくちびるは彼女のものになった。
呼吸など無ければいい。
そうは思ったが、限界もある。
磁石を引き剥がすかのように離れた。
彼女の口から吐息がもれた。
たまらず、またくちびるを寄せた。
…結局、3回それを繰り返し、4回目にはふたりで笑い出した。
「俺って、しつこいなぁ(笑)」
「私も…しつこいよ」
5回目は恵子ちゃんのほうからだった。
心とは裏腹に、無理矢理、身体を離してお互いの席に戻った。
と、膝に花びらが一枚落ちた。
見ると胸のメランポジウムがぐったりしていた。
抜き取り、恵子ちゃんの小さな手のひらに置いた。
「あげる」
「ありがとお」
恵子ちゃんが両手で花を包んだ。
「…明日、帰っちゃうんだよねぇ」
「うん」
「…あーあ…」
「近いうちにまた帰ってくるから」
「…うん、待ってる。でも無理しちゃダメだよ?」
「ありがと」
「私も今度そっちに行くから!健吾君の住んでるトコ、見たい」
「いっぱい、見せたいものがあるよ」
「楽しみだな〜」
無理して明るく振舞う恵子ちゃんがとてもいじらしかった。
身体が壊れてしまわないように、力加減をして抱きしめるのはとても難しかった。
「明日、見送り行くね」
腕の中の恵子ちゃんの声はか細かった。
太田家での朝食の席で、昨晩田中家に挨拶に行ったことを報告した。
お父さんも母も、微笑みながら俺の報告を聞いてくれた。
よろこぶふたりの顔を見て、
自分が満ち足りていることを、温かなメシと一緒に噛みしめた。
いつものようにお父さんの車で駅へと向かった。
駅に着くなり、ふたりには悪いが早々に帰ってもらう。
恵子ちゃんが待っているのだ。
秘密にする必要はないが、やっぱりまだ照れくさかった。
駅ビルの喫茶店で恵子ちゃんと落ち合った。
今日も笑顔で俺を迎えた恵子ちゃんだったが、時折、少しだけ浮かない表情を見せた。
(俺と離れるのが辛いのかな?…んもう、愛いやつめ)
などと気を良くし、恵子ちゃんの手を握る。
(え…?)
その手の熱さに驚いた。
「恵子ちゃん!熱あるんじゃないか!?」
「あ、ちがうのコレ。薬の副作用」
耳の薬を飲むと一時的に熱や軽い頭痛が起こるのだという。
「今日は朝ごはんの時に飲むの忘れちゃったから、ついさっき飲んだの。
だいじょうぶ。あと30分もすれば収まるから」
眉が八の字になっているのに、精一杯の笑顔で俺に答えている。
これまで病気で辛そうにしている恵子ちゃんを見たことなどなかった。
もしかしたら、俺の前で我慢していたこともあったのかもしれない。
そう思うと、とにかく何かしてあげたくなった。
だから彼女のソファに並んで座った。
「俺に寄りかかってなよ」
よくファミレスなどで当人たちしかいないのに並んで座っているカップルを見ると、
(バッカじゃねーの)
などと胸の中で悪態をついていたものだが、この時は自分も馬鹿のひとりになった。
髪を撫でるたびに恥ずかしさは消えた。
案外、こういうのも悪くないな。
…いや、けっこう好きかも。
列車がホームに入ってくるまで15分。
相変わらずこの時間はイヤなものだ。
芽衣子さんとの時にも味わった、やるせない、切ない気持ち。
それを誤魔化そうと話し続けても、
浮かぶ言葉は虚ろで他愛のないものだけだった。
ふと見ると恵子ちゃんは無言で俯いていた。
あ、と思い、
「だいじょうぶ?また具合悪くなった?」
と、彼女の顔を覗き込んだ。
泣いてた。
初めて見る、恵子ちゃんの泣き顔。
言葉も出ず見つめた。
「さみしいの。さみしいの」
感情が加速していくのが見て取れた。
「ごめんね…ごめんね…」
嗚咽まじりに何度も謝る恵子ちゃんを抱き寄せた。
彼女の震えを止めてあげたくて腕に力をこめた。
新幹線のデッキに乗り込んでからも、恵子ちゃんの手を放せなかった。
このまま、かっさらってしまおうか?
簡単なことだ。この腕を引くだけ。
しかし未練を断ち切ったのは恵子ちゃんのほうからだった。
絡めた指をほどき、バイバイとその手を振る。
かろうじての笑顔。
言葉はない。
ドン、と無慈悲な音を立ててドアが閉まった。
あわてて小窓から恵子ちゃんを探す。
彼女の顔はまたクシャクシャになっていた。
そんな顔しないでくれ。
こっちまでつられてしまうじゃないか。
なんてことない。
しばしの別れなのだ。
自分に言い聞かせ、笑顔で彼女に手を振った。
「無事に着いたかな?
昼間はごめんね。突然泣いたりして。
いい歳して自分でも呆れます(笑)
健吾君と離れるかと思ったら、急にさみしくなってしまったの。
でも今はだいぶ落ち着きました。
今とても健吾君の声を聞きたいけれど、聞いたらまた泣いてしまいそうなので、今日はメールだけで我慢します。
電話しちゃやだよ?(笑)」
俺も自信がないよ。
きっととんでもないことを口走ってしまいそうだもの。
なんとかメールだけにした。
5回も6回も送ったが。
毎日、彼女の声や文字に触れた。
仕事が忙しくても苦にならなかった。
短気な性格なのに腹を立てることがなくなった。
せっかちな性格なのに駆け込み乗車もしなくなった。
毎晩のように、良い夢ばかり見た。
気づくといつも笑顔だった。
その日の恵子ちゃんの声はいつにも増して弾んでいた。
毎年4月に開催される書展の作品が仕上がったのだという。
「ずいぶん早く完成したんだね〜」
「うん!びっくりするほど筆がすすんで。
今までで最高傑作だと思う。もちろん自分の中でだけど(笑)」
「へぇ。今回の題材は?」
「んー…内緒(笑)」
「なんじゃそりゃ(笑)」
「知りたかったら、来年一緒に観に行くこと!」
「そりゃ絶対行けるようにするけど…なんだよ、気になるなぁ」
「健吾君」
「ん?」
「ありがとう」
「?なにが?」
「あのね、今回の作品つくってる時、心がすごく落ち着いてたの。
今まで無いくらいに。
それはね、きっと健吾君のおかげなんだと思う」
「俺、なんかした?」
「ううん。なんにもしてない(笑)」
「ワケわかんねぇ(笑)」
俺も君にお礼が言いたかったんだ。
俺は毎日、笑顔でいられるよ。
そんな照れ臭いこと言えやしなくて、別の話題に入った。
「9月になったらそっち帰るね」
「だいじょうぶなの?」
「うん、休みとる。デートしよう。ちゃんとしたデート(笑)」
「うん!(笑)」
「できれば8月中にもう1回くらい帰りたかったけど、仕事忙しくて…ごめんな」
「ううん!うれしい」
その後はあれこれとふたりでデートの予定をたてた。
気づけば電話は4時間にも及び、ふたりとも惜しみつつ受話器を置いた。
8月最後の休日、プレゼントを物色しに街に出かけた。
恋人へのプレゼントほど選んでいて楽しいものはない。
何を贈ったら彼女は喜ぶだろう。
自分の物を買うよりもウキウキする。
何軒もの店を巡った。
喫茶店で手早く昼食を済ませ、再び物色しに歩き出した時だった。
アクセサリーショップが目に止まった。
リングのいっぱい詰まったショーケースに引き寄せられる。
「そちらはエンゲージリングに最適ですよ」
俺の心を見透かしたかのように女性店員が言う。
エンゲージリング。
その言葉を意識した時、他の何物もプレゼントとして考えられなくなった。
食い入るように何分、何十分もケースを見つめた。
子供の頃に見たCMが頭に浮かぶ。
黒人の少年が雨の中、ショーケースの中のトランペットを見つめるCM。
たしかクレジットカードのCMだったか。
ふと、財布の中のクレジットカードを思い出した。
今はなんのローンも抱えてはいない。
(買えるな、コレ)
0がいくつも並ぶ値札。
その数が増えるほど恵子ちゃんの笑顔が増えるような、そんな馬鹿な錯覚を覚えた。
さっきから何度も声をかけてきた女性店員を手招いた。
嬉々とした顔で店員は駆け寄ってきた。
「サイズのお直しは後日でも結構ですので」
店員に愛想良く見送られ、店を後にした。
右手に提げた品の良い紙袋に何度も目を落としながら、まっすぐ家路についた。
風呂はカラスの行水。
髪を乾かすのもそっちのけ。
小さな化粧箱をテーブルにのせ、なぜか正座。
ゆっくりとリボンを解く。
指紋が消えるほどきれいに洗った指で、震えるほどやさしく指輪をつまんだ。
買ってしまった。
思わずニンマリとした。
渡す時のシチュエーションに思いを巡らし、楽しい妄想に何時間も浸った。
我ながら性急かなと、ちらと思ったりもした。
しかし、あらゆる事どもにいつも必要以上に悩む俺が、
コレを勢いで買った(どれにしようか悩みはしたが)。
その勢いが俺の気持ち。
それだけで十分。
確信と自信が漲った。
恵子ちゃんとのデートまで一週間と迫った夜。
夜勤明けのその日、夕方から床に就いていた俺は1本の電話で起こされた。
母からだった。
「恵子ちゃんが倒れて、病院に運ばれたそうなの」
母の声は落ち着いていた。
それは、俺にも落ち着けと言っているようだった。
「とりあえず守さんからそのことだけ連絡がきたんだけど、状況がよくわからないの。
詳しいことがわかったらすぐ連絡するからね?いい?」
わかってる。わかってる。
だいじょうぶ。だいじょうぶ。
冷静に自分の言っていることを反復した。
10分。
20分。
30分。
電話はぴくりとも声をあげない。
この間、何をすべきか考えることもなく、自然に身体が動いた。
まるでこれから会社にでも行くように、歯を磨き、髪を整えた。
0時。
あらかじめセットしていた目覚まし時計が鳴った。
それが徒競走の合図でもあるかのように、俺は携帯と車のカギを握り締め、外に飛び出た。
なんとか高速道路に乗り、記憶をたどりながらひた走った。
家を出て1時間も経った頃、携帯が鳴った。お父さんだった。
「今、向かってますから」
「そうか。とりあえず、状況を説明するね」
恵子ちゃんが倒れたのは午後9時頃。
風呂の脱衣所で。
医者の診断はくも膜下出血。
現在、集中治療室で手術中。
お父さんの言葉のひとつひとつが、
まるで新聞の見出し文字のように頭に入ってきた。
「私達も今、病院にいるから」
恵子ちゃんの家から少し離れた市立病院だった。
そこで初めて、病院がどこかも知らずに家を飛び出したのに気づいた。
当直の看護師に案内され、集中治療室へと向かう。
治療室の前、長椅子に守さんと浩美さん、お父さんと母が座っていた。
「来てくれてありがとう」と、守さんと浩美さんが力なく、それでも笑顔で言った。
手術は未だ続いていた。
守さんに話を聞いた。
仕事から帰ってきた時、恵子ちゃんはいたって普通だったそうだ。
それが食後、頭痛を訴えた。
恵子ちゃん自身も、守さんたちも、それは耳の薬のせいだと気にも留めなかったという。
そして恵子ちゃんは倒れた。
皆、言葉もなく、時が経つのをひたすら待った。
夜が明けた。
沈黙を守っていた治療室の扉が、拍子抜けするほど軽薄な音をたてて開いた。
一斉に立ち上がった俺たちを、出てきた医者が別室へと誘った。
医者の説明には守さんの希望で俺たちも同席した。
手術は無事に済んだ。
やはりくも膜下出血だという。
この時、初めてこの病気に対する知識を得た。
この病気は、脳を取り巻く動脈に“動脈瘤”というコブができ、
それが破裂してしまうことだそうだ。
高血圧だったり、乱れた生活を送っていたり、
疲れやストレスが原因になり得ると医者は言った。
だがそのどれもが恵子ちゃんには該当しなかった。
「遺伝的なものかもしれません」
医者の言葉に守さんが頷いた。
田中の一族には何人も脳の病気を患った人がいるそうだ。
そして最後に医者は言った。
24時間以内に再破裂の恐れがあり、そしてそれはかなりの高確率だと。
再破裂したら、その先は…。
誰もその質問を口に出すことはなかった。
当然といえば当然の対応なのに、俺は理不尽な怒りを覚えていた。
憔悴しきった4人に仮眠をとることを勧め、俺はひとり治療室の前に残った。
時折り開く扉の隙間から室内を覗ったが、様々な機材が俺と恵子ちゃんを隔てていた。
こういった場面ではよく「どれほど時が経ったのだろう」などと、時間の感覚を失くすようだが、そんなことは俺には微塵もなかった。
壁に掛かった時計と共に、冷徹なほど、時を認識し続けた。
ただ時計の針を追うだけの時間に終わりが来た。
何かが起こったのはすぐにわかった。
滅多に開かなかった治療室の扉が、
目まぐるしく、せわしなく、医者や看護師を吸い込んでいく。
知らせを受けた守さんたちが駆けてきた。
30分後。
治療室の扉がやっと俺たちを招き入れてくれた。
物々しい機械に囲まれたベッドに、恵子ちゃんが横たわっていた。
浩美さんが恵子ちゃんの身体に覆い被さった。
その傍らで守さんが立ちすくんだ。
お父さんと母も立ち尽くしていた。
数分後、医者がなにか説明を始めていた。
だがそれは、
俺にとってなんの意味もない説明だった。
恵子ちゃんはもう、笑わない。
母は浩美さんに付き添っていた。
お父さんは俺の肩を抱き、俺は彼に導かれるまま治療室の外に出た。
ふたりで喫煙所に行った。
ジュースの自販機があった。
ジーパンのポケットを弄り、気づいた。
(あ、サイフ忘れてら)
いいよ、とお父さんがコインを出し、俺にコーヒーを買ってくれた。
熱いコーヒーが腹に流れ落ちていく。
今日初めて口にした食物だった。
「だいじょうぶ?」
タバコを差し出しながらお父さんが言った。
銜えると、すかさず火を点けてくれた。
これも今日初めての喫煙。
旨かった。驚くほど。
そのことに自分の精神状態を推し量った。
「だいじょうぶです」
自分では力強く言ったつもりだった。
電話で職場の先輩に事情を説明した。
恵子ちゃんとの関係を知る由もないのだが、先輩は気を遣ってくれ、あらかじめとっていた来週末の休みまで続けて休めるよう、手配をしてくれた。
ほどなくして、
お父さんたちが手配した葬儀屋が、恵子ちゃんを葬儀場へと運んでいった。
俺も車で随伴した。
式場に着くなり、守さんとお父さんは葬儀屋と打ち合わせに入った。
何か手伝いをと申し出たが、守さんもお父さんも「休んでて」と気を遣ってくれた。
何かしてなければ恵子ちゃんのことばかり考えてしまう、
そう思っていたが、頭の中は空っぽだった。
駆けつけた親戚の人たちと交わした言葉も、すべて頭を素通りした。
することも、考えることもなく喫煙所に入り浸っていた俺の元に母がやってきた。
「今、湯灌が終わったの。浩美さんが呼んでるから来て」
母に案内され、湯灌室へと行った。
まるで診察台のような飾り気の無いベッドの傍らに、浩美さんが立っていた。
その顔が見れない。
ベッドも見れない。
虚空に視線を漂わせていたら、浩美さんが言った。
「健吾君、お願いがあるの」
顔を上げた。
「恵子に、服を着せてあげてほしいの」
膝に力を入れ、ベッドへと近づいた。
浩美さんが覆っていた白い布をまくった。
起きている時と少しも違わぬ恵子ちゃんが、そこにいた。
胸には下着をつけ、腰にはサラシが巻かれている。
鼻や耳には脱脂綿が詰められ、なんだか息苦しそうだった。
澄んだ白い肌には一点の生気の欠片すら残っていないはずなのに、触れれば恥ずかしがる恵子ちゃんを感じた。
首と肩を右手で支え、半身を起こした。
こんなに軽いものなのか。
俺の顎のすぐ下に、
あの日、束の間の愛撫を重ねた恵子ちゃんの小さなくちびるがあった。
浩美さんが白い着物を差し出しながら、手伝おうと手を伸ばしてきた。
「ひとりで、やらせてもらえませんか」
浩美さんは頷いてくれた。
恵子ちゃんを胸に抱き、虚脱した四肢を着物に通していった。
身体を動かすたびに、きつい薬品の匂いが鼻をかすめる。
大好きだったアリュールの香りは、今はもう残り香すらしない。
手を握った。
肩を抱いた。
顔に触れた。
着せ終わった恵子ちゃんを、いつまでも抱いていたかった。
浩美さんが「ありがとう」と言った。
その言葉がすべてに終わりを告げているように感じた。
今夜は守さんとお父さんと俺が、恵子ちゃんの側にいてあげることになった。
すっかり夜も更けた頃、寝酒にとお父さんが酒を用意してくれた。
守さんも付き合い、三人で淡々と飲んだ。
ほとんど会話もない酒盛りだったが、酔いなどまわろうはずもなかった。
そろそろ寝ようかと、ふたりが式場内の寝室に引揚げた。
俺は恵子ちゃんの元へと向かった。
恵子ちゃんが眠っている部屋は、明日の通夜の場ともなる広間だった。
飾られ、煌々と照らされた祭壇の前。
聞こえるはずのない恵子ちゃんの寝息を探し、静かな彼女の寝顔を見続ける。
もう、いいんだぞ。
だが俺の目は期待を裏切り、沈黙していた。
葬儀の雑用で日中を慌しく過ごし、あっという間に通夜を迎えた。
読経の最中だった。
突然、守さんが泣き出した。
ウオオオとも、ウアアアともつかない、激しい慟哭だった。
俺は守さんを羨ましく思った。
蚊取り線香のように螺旋状になった線香。
朝までもつというこの線香が寝ずの番を不要としていたが、それでも恵子ちゃんの側にいたかったから、俺は線香を点け続けた。
深夜1時をまわった頃だったか。
皆寝静まり、俺ひとりだけとなった祭壇の前に、最年長の従兄・勲夫さんが現れた。
「恵子と付き合ってたんだってね」
酒を酌み交わしながら勲夫さんが言った。
「あの子は、従妹というより妹みたいなもんだったんだ。
だから、健吾君と付き合ってるって聞いた時、俺もすごく嬉しかったんだよ」
祭壇を眺める勲夫さんの右目から、涙が筋をつくった。
「よかったよ。あいつに…最後に大切な人ができて」
飲んだ酒がそのまま出てきているかのように、
勲夫さんの目は乾くことを忘れていた。
勲夫さんが寝室に引き上げた。
またひとりとなった部屋で、俺はゴロンと寝転んだ。
“男は人前で泣くべきではない”
子供の頃からの親父の教え。
頑なに、なぜ守っているのか。俺の身体は。
そんなにも深く、刻み込まれているというのか。その言葉は。
恵子ちゃんのために泣くことが、彼女への手向けとなるはずなのに。
泣け。
泣けよ、俺。
早朝、守さんに起こされた。
「側にいてくれてありがとう」
守さんの言葉が、まるで恵子ちゃんの言葉のように聞こえた。
午後からの葬儀、俺は受付を買って出た。
参列はしたくない。
理由はわからなかったが、ただその一心だった。
守さんは了承してくれた。
勲夫さんから借りたサイズの合わない喪服を身につけ、ふたりで受付に立った。
多くの人が記帳していき、やがて恵子ちゃんの会社の人たちが訪れた。
その一団の中、ひとりの男性が目についた。
その男性は、止め処なく溢れる涙を必死に拭っていた。
彼は…きっと、彼だ。
直感が決めつけた。
覚束ない筆遣いで書かれた彼の名。
もちろん見覚えなどないその名前に視線を落とし、
俺は彼の姿を決して見ようとはしなかった。
静まり返った受付の席にじっと座る。
訪れる者はなかった。
かすかに聞こえる読経に耳をすませながら、俺は恵子ちゃんを思い浮かべた。
何度も何度も、繰り返し繰り返し。
そうすることによって、無理矢理に感情を呼び起こそうとしていた。
華奢な背中。
屈託のない笑顔。
俺を見上げる瞳。
何かをささやく小さなくちびる。
そして、
別れ際に見た泣き顔。
頭の中を恵子ちゃんが舞う。
だが、それだけだった。
どうして、守さんや勲夫さんや“彼”のようにできないんだろう?
ひょっとして俺は、まだ現実を認識できていないのか?
動かなくなった彼女に触れただろ?
まだ無意識に我慢してるのか?
それとも、単に冷たい男なのか?
それとも。それとも。それとも。
「お別れよ。お花を手向けてあげなさい」
母の声が俺を現実に引き戻した。
葬儀は終わっていた。
それぞれ恵子ちゃんの左右にまわり、オレンジ色の花をそっと顔の近くに置いた。
じっとその顔を見つめる。
どんなに生きているかのように化粧が施されていても、動かず、表情もなく、ただそこにあるだけの存在。
眠そうに目をこすりながら、『おはよう!』と笑いかけてくる、そんな気配はもう消え失せていた。
棺に蓋が被せられた。
参列者が一打ち一打ち、一本一本、釘を打ち付けていく。
蓋の小窓が閉じられようとしていた。
そこからのぞくものを決して目に焼き付けないように、俺は視線を逸らした。
読経の中、俺の目はそこ一点に釘付けになった。
火葬。
あの向こう側に、恵子ちゃんがいる。
恵子ちゃんが、焼かれている。
恵子ちゃんが、消えていく。
突然のことだった。
奥歯が鳴った。加速する鼓動と連動しているかのように。
足が、一歩、また一歩と前に踏み出した。
俺が憶えているのはここまでだった。
「だいじょうぶ?だいじょうぶ?」
泣き顔だった。
周囲に視線をめぐらす。
十畳ほどの和室。
そこに床が延べられ、俺は寝かされていた。
そこは火葬場の控え室だった。
「大変だったのよ」
一生懸命、涙を拭いながら、俺の身に起きたことを母が話してくれた。
俺は突然、叫び出したという。
そして意味不明な言葉を発しながら、閉ざされた焼却炉の扉を叩き始めた。
あまりの異常さに驚いたお父さんや従兄たちが、俺の身体を制した。
俺は激しくそれに抗い、そして十数秒後、ヘナヘナと失神してしまったそうだ。
俄かに信じ難い話だったが、掛け布団をめくって愕然とした。
ズボンを穿いていなかった。
驚き、白黒させた目に、見覚えのない真新しい下着が映った。
気を失った俺は、失禁していたそうだ。
「本当に…気でも違ったのかと思ったんだから」
せっかく拭った母の頬がまた濡れていた。
首筋から頭のてっぺんまで寒気が走った。
羞恥心とは違う、得体の知れない感情に戸惑いながら、俺は母の泣く姿を呆然と見つめた。
すでに火葬は終わり、ほとんどの参列者が帰っていたが、お父さんや母、弟妹たち、守さん夫婦、それに勲夫さんが帰らず残っていた。
俺を気遣ってのことだった。
「だいじょうぶかい?病院に行ったほうがよくないかい?」
皆、口々にそう言って心配してくれたが、別段、身体に異常は感じなかった。
それよりも気になっていたことを尋ねた。
「あの…恵子ちゃんは?」
勲夫さんが俯き加減に目配せをした。
部屋の片隅、即席の祭壇に、冗談とも思えるくらい小さくなった恵子ちゃんがいた。
母の用意してくれたジャージに着替え、恵子ちゃんの前に正座した。
線香に火をつける。
静かに手を合わせ、目を閉じた。
一切の静寂が、恵子ちゃんと俺を包んだ。
語りかけるべき言葉も思い浮かばず、自分に苛立つ時間だけが過ぎた。
俺は断念し、目を開けた。
目の前に鎮座する、白く、小さな四角い箱。
君は、そこにいるの?
しゃべるはずもない箱に、心の中で問いかけた。
母は会社を休み、看病してくれた。
「ゆっくり休んでいきなさい」
母の言葉がありがたかった。
今、ひとりになるのは、辛い。怖い。
熱は三日間続いたが、四日目の朝にはすっかり復調した。
「もうだいじょうぶだから」
心配そうにしている母を会社に送り出した。
まだまだ日差しの強い縁側に座り、ぼーっと外の空気に触れた。
昼。
用意されていたお粥を腹に流し込んでいたら、電話がかかってきた。
守さんだった。
「身体の調子はどお?」
寝込んでいたこの三日間、守さんは毎日電話をくれたと、母に聞いていた。
「すみません、ご心配をおかけして。もう、だいじょうぶです」
「そうか…よかった」
本来なら俺のほうが守さんたちを気にかけなければいけないのに…。
ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちが胸を締め付けた。
「健吾君、いつ横浜に帰るの?」
「休みは日曜日までなので…明日か明後日には帰ろうかと思ってます」
「そうか。なら帰る時でかまわないから、ウチに寄ってもらってもいいかな?」
「ええ、かまいませんけど…」
「渡したいものがあるんだ」
「なんです?」
「恵子の手紙を見つけたんだ。健吾君宛ての」
手紙…?
恵子ちゃんからの?
「あの…今からお邪魔してもいいですか?」
「別にかまわないけど…だいじょうぶなのかい?無理しちゃダメだよ?」
守さんの気遣いを他所に、俺はただちに家を出た。
気持ちが急いて仕方ない。
それでも普段よりゆっくりと運転するよう心がけ、
一時間半ほどかけて守さんの家に着いた。
やつれた顔で明るく振舞うふたりは痛々しかった。
俺も無理矢理、笑顔を作った。
恵子ちゃんの元へ案内された。
型通りに線香を手向け、手を合わせた。
相変わらず、箱は何も語らなかった。
居間に通され、茶を出された。
それに口をつけるのもそこそこに、守さんに目で促す。
守さんは黙って頷き、件の手紙を差し出した。
桜色の小さな封筒。
表に“健吾君へ”という文字。
俯きながら浩美さんが言った。
「今日ね、恵子の部屋の整理、始めようと思ったの。
でも…途中でやめちゃった。
あの子の物を触ってたら、まだそのままにしておきたくなって…」
当然だろう。
遺品の整理をすることが、心の整理につながるとは限らない。
いや、心の整理がつかないからこそ、遺品も整理できないのかもしれない。
「今はまだ…そのままでいいんじゃないですか」
「そうよね。まだ…いいよね」
顔を上げた浩美さんは、許しを得たかのようにほっとした顔をしていた。
俺の気持ちを察してくれたのか、守さんがやさしく言ってくれた。
俺は深く頭を下げ、その場を辞去した。
車の運転がもどかしい。
早く。早く。
しかし俺の邪魔をするように道はどんどん混み始め、とうとう高速のインターの手前で渋滞にハマった。
タバコをくわえ、イライラしながらハンドルを何度も叩く。
もう、その辺に車を止めてしまおうか。
なにも家に帰ってからじゃなくてもいいんだ。
そう思い始めた時、バックミラーに遠くの山々が映った。
(そうだ。あそこに行こう)
それはバーベキューの時に行った、恵子ちゃんのお気に入りの場所。
俺はすぐさま渋滞の列から抜け出し、Uターンした。
封筒を握り締め、あの日恵子ちゃんと歩いた森の小道を駆けた。
緑は数瞬で流れ去り、あっという間にあの滝が目に飛び込んできた。
乱れた息を整えながら、あの時ふたりで座った岩に腰を下ろす。
と、背後に人の気配を感じ振り向いた。
今日は先客がいたようだ。
小学生くらいの男の子がふたり。
ほんの少しの間、彼らは俺を見つめ、やがて興味を失ったのか、また遊びに戻っていった。
封筒に視線を落とす。
一呼吸。二呼吸。そして最後にもう一呼吸。
そうして心を落ち着け、封筒を開封した。
ふわっと、アリュールの香りが鼻先を漂った。
封筒と同じ桜色の便箋が2枚。
そこには俺が愛した、しなやかで美しい文字が詰まっていた。
今度のデートの時に渡そうと、この手紙を書いています。
いつもおちゃらけてばっかりいる私だから、こんな手紙を書くと健吾君はきっと笑うだろうけれど、今日はガマンしてね。
私の素直な気持ちです。
健吾君、ありがとう。
いつも笑わせてくれて。
いつも話を聞いてくれて。
いつも励ましてくれて。
いつも心配してくれて。
いつも素敵な言葉をくれて。
いつも、私を幸せな気分にしてくれて。
ありがとう。
でも私は、その何分の1でもお返しできていますか?
最近思ったの。
私は健吾君からもらうばっかりで、何ひとつお返しできていないんじゃないかって。
つき合う前の、もうずっと昔のこと。健吾君は言ったね。
「俺は親戚とか少ないからみんなと親戚になれてうれしい」って。
そしてその言葉どおり、
健吾君は今までいつも、私やイトコ、親戚たちに優しく接してくれたね。
私たちを、大事にしてくれたね。
私はそれがすごくうれしかったけれど、反面、こう思ったの。
健吾君はずっと、さみしかったんじゃないかって。
健吾君はいつも堂々としていて、言葉も力強くて…私はそんな健吾君をいつも“すごいなぁ”って思いながら見てきました。
でもいつだったか健吾君がご両親の話をしたとき、いつもと違う健吾君を感じたの。
健吾君が、泣いてるような気がしたの。
健吾君はあまり詳しくは話してくれなかったけれど、きっと辛い体験をしたんだね。
そのとき私は何も言えなかった。何もできなかった。
はじめて健吾君の心に近づけた気がしたのに、どうしたらいいかわからなかった。
私が勝手に感じたことだし、気のせいかもしれないけれど、でもこれからは、さみしいと感じたとき思い出して。
私はいつでも、健吾君の横にいます。
私はずっと、健吾君の手をにぎっています。
健吾君
愛してます
2005.8.21 恵子』
恵子ちゃんからの、最初で最後のラブレターだった。
大きな水しぶき。楽しげな嬌声。入れ代わり、立ち代わり。
咄嗟に口を手で押さえた。
そんなことをせずとも、彼らには聞こえなかったかもしれない。
俺は泣いた。
俺は俺の日常に戻った。
時折、無性に腹が立つ。
君という大事な要素を欠いているのに、この世界は変わらず機能しているから。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ夜。
まるで君を忘れてしまったかのような世界。
でも俺は、この世界のそこかしこで、君を感じている。
職場に君と同じロングヘアの女の子がいる。
その後姿が君を思わせるから、見るたびいつも視線をはずしてしまうけれど、ついついもう一度見てしまう。
通勤電車でアリュールの香りがした。
香りの主を探してキョロキョロしたんだけど見つからなかった。
でも、それでもあきらめられなくて、電車を降りるのをためらった。
本屋に行くと必ず、君からもらった本を探す。
そして見つけては安心し、指でそっとなぞる。
見つからないと落ち着かなくて、ただそれだけのために別の本屋に行ってしまう。
いなくなった君に、ずっと恋をしている。
『早く結婚してくれ』と、君は言ったね。
見たかったなぁ。
あの時君は、どんな顔をして、その言葉を言ったんだい?
毎日のように俺は、その顔を想像してる。
そしていつのまにかその顔が、俺が思い出す君の顔になってしまった。
君の願いは、俺の願いでした。
恵子ちゃん。
さよなら。
まずはこのような駄文・長文にお付き合いくださったみなさんにあらためて御礼を申し上げます。
そして重ねて、長期に渡りスレッドを放置した件についてお詫び申し上げます。
本当にすみません。
このスレッドを立てた当時、私は精神的にも肉体的にも病んでいました。
何をしていても考えることは彼女のことばかりで、食事も睡眠も満足にとっていませんでした。
そして心身共に日に日に弱っていく中、この2チャンネルに出会いました。
お恥ずかしい話、コンピュータ業界に身を置きながら
この掲示板について全くの無知だった私は、とあるスレッドに書かれていた悩みと、それに対する多くの意見・アドバイス・励ましを拝見し、とても感動しました。
そこには真摯に相談を受ける人々と、
それによって悩みから解放された人々がいました。
おかしな話ですが、家族や身近にいる友人よりも、モニターの向こう側にいる赤の他人に救いを求めたのです。
そして私は書き始めました。
仕事をしていても、寝ても覚めても、このスレッドのことばかり考えました。
ある意味、捌け口として成功していたと思えます。
文章を書くために彼女との出来事を思い出していく作業―それは一見矛盾しているようですが、機械的なその作業に熱中することにより、
確実に悲しみや痛みが和らいでいったのです。
そして何よりみなさんからの感想、アドバイス、激励、叱咤その他諸々がますます私をこのスレッドに没入させていきました。
長らく忘れていた痛みが胸を襲いました。
しかし私はそれを軽視し、「あと少しだから」と書く手を緩めず、会社に行くこと以外の全ての時間を(それこそ食事や睡眠をおざなりにしてでも)
文章作りに費やすようになりました。
三、四日ほど経った頃。あの日は夜勤明けでした。
家に着くなり書き始め、夕方にとうとう書き終えました。(今回アップした分です)
書き上げたことへの安堵からか、一気に疲労感に襲われた私は、スレッドにアップする前に一眠りすることにし、ベッドに雪崩れ込みました。
そして私は、自分の身体の限界を知りました。
夜半過ぎ、激しい動悸に目覚めました。
かつてないほどの痛みに危険を感じた私は救急車を呼びました。
そして駆けつけた救急隊員の担架に揺られながら、私は気を失いました。
驚いたことに、倒れた晩から丸二日が経過していました。
しかも二度の手術を経た後でした。
担当医の説明に更に驚きました。
私の心臓は、数年前に倒れた時よりも格段に重い病にかかっていたのです。
その年の春に受診した健康診断ではなんの問題もなかったのに…。
担当医の問診に対し、この二ヶ月の私の生活について打ち明けました。
担当医は合点がいったという表情で私に言いました。
精神的な要因が強いですね、と。
なんとたった二ヶ月の間に、私の心は私の身体を殺す寸前まで追い詰めていました。
それどころか「もうどうでもいいや」という、捨て鉢な気分を自覚しました。
ようやく2チャンネルで手に入れかけていた安らぎや解放感も、この時は霧散していました。
私の病気は決して難病というわけではなかったのですが、あと二度ほど手術をする必要があると担当医は言いました。
そしてそれに耐えられるだけの体力と気力も必要だと。
両方ともその時の私には無いものでしたが、
それを取り戻す気にもなれませんでした。
母は常に私を気遣い、励ましてくれましたが、私の無気力さは変わりませんでした。
父やお父さん、弟妹たち、守さんや親戚の人たち、友人や同僚、様々な人々が私の病室を訪れ、みな口々に私を慰めてくれましたが、やはり私の心に変化はありませんでした。
そしてもはや自力で歩けなくなるほど衰弱した私は、この先に訪れるであろう己の末路をただひたすらに待ちました。
そして入院生活も一ヶ月になろうとしていた去年の暮れ、心配した担当医と家族の勧めで、私はカウンセラーの治療を受けることになりました。
嫌々、カウンセラー室を訪れた私は、初日から反抗的な態度で彼女の診断を受けました。
(どうせ型通りの診断だろう)、(俺の気持ちなどわかるものか)、と。
しかし返ってきた彼女の反応は実に冷静で、ともすれば冷淡でした。
正直な話、これがプロというものかと私は感心しました。
慰めや励ましの言葉に埋もれていた私にとって、彼女の態度は新鮮でした。
悪態をついたり無視したり。
しかし悉く、彼女には受け流されました。
一週間、二週間とそれが続いた時、私の心に変化が現れました。
それまで無気力で起伏のなかった心の中に、イライラする気持ちが生まれていました。
それは彼女に対して向けられていたものでした。
いつも表情を変えずに私の相手をしている彼女を、なんとか困らせてやりたい。
あのすまし顔を、困った顔に変えてやりたい。
非常にサディスティックで、暴力的な感情でしたが、その一心が私の糧になっていたのです。
歪んだ感情に支えられ、
私は毎日、カウンセラー室に車椅子を走らせるようになりました。
1月下旬、私は再び昏睡状態になりました。
三日後、私は目覚めました。
ICUのベッドの上、様々なチューブを身体に纏いながら、私は(あーあ、また生き延びてら、俺)
と、生に感謝することなく己の悪運を恨めしく思っていました。
それから更に四日後、個室に戻った私の元にカウンセラーの先生がやってきました。
空元気を振り絞って相も変わらずに毒づく私をにらみ、彼女は一言、「馬鹿じゃないの?甘えるのもいい加減にしたら?」そう言い捨て、病室を出て行きました。
唖然としました。
彼女の目には涙が溜まっていました。
さすがに悪態などつけようはずもなく、恐る恐る彼女の顔色を伺いながら話しかけました。
彼女は私の顔など見ず、ただ生返事をするだけ。
私は居た堪れなくなり、この日は早々に退散しました。
その後も毎日、彼女の元に通いました。
あの時の涙が気になっていた私は、まるで彼女の機嫌をとるかのようにカウンセリングに身を入れました。
まだ気持ちは前向きとは言い難かったのですが、私は彼女に、親身になってくれていることへのお礼を言いました。
「仕事だから」と言いつつも、彼女は照れ臭そうに笑っていました。
お互いに打ち解けた気がした私は、彼女にあの時の涙の意味を尋ねました。
しかし彼女が訥々と語ってくれた話は、そんな単純なものではありませんでした。
彼女は旦那さんを亡くしていました。
同じ精神治療の現場に身を置いていた旦那さんは、職場では尊敬すべき師であり、家庭では優しく申し分のない夫だったそうです。
その頃の二人は都内の大病院に勤務していたそうで、きっと二人の前途は、明るく希望に満ちていたことでしょう。
しかし6年前、旦那さんを病魔が襲いました。
私と同じ心臓の病で、私のそれよりも数倍重いものだったそうです。
そして皮肉なことに、それと前後して彼女の妊娠も判明しました。
彼女は病床の旦那さんを励ましました。
しかし元々エリート意識の強かった旦那さんは、病気が自分のキャリアに傷をつけたとひどく落胆し、自暴自棄になったそうです。
担当医ばかりか、妻である自分の言うことも聞き入れなくなった旦那さんは日毎に衰弱し、わずか半年足らずの闘病で亡くなられたということです。
彼女の言った言葉が今でも耳に残っています。
「彼は闘病なんてしなかった。あれは自殺のようなもの」
以来、彼女は息子さんと二人で生きてきたそうです。
私の膝に手を乗せ、彼女は最後にこう言いました。
「心を持っているのはあなたひとりだけじゃないの。
あなたの周りには、あなたの心を“思いやる心”がいっぱいあるのよ」
すっかり小さくなった胃袋には拷問のようでしたが、なんとか詰め込みました。
病気を治そうと思いました。
前進しようと思いました。
他人の悲話を聴いて自分を見つめ直す…陳腐なメロドラマのような話です。
でも私が、今の前向きな気持ちを抱く第一歩でした。
時折、思い出して瞼を晴らしたこともありましたが、無理矢理にでも顔を上げ続けました。
そして三月末、体力的にも精神的にも万全となった私は、3回目の手術に臨みました。
手術前の面会にはたくさんの人々が私の病室を訪れました。
家族や親戚、友人、同僚、カウンセラーの先生までもが来てくれ、私は「大袈裟だなぁ、みんな(笑)」と笑いながら手術室に入ったおぼえがあります。
…しかし、後から知ったのですが、決して大袈裟ではなかったのです。
私が無気力でいた頃、母は幾度となく担当医に言われていたそうです。
「手術日が延びれば延びるほど、成功率も下がっていきます」と。
そして手術前夜に母が聞かされていた成功率は50%をきっていたそうです。
きっと面会に来ていた誰もが(見納めだな、こりゃ)と思っていたのでしょう(笑)
…私も今だからこそ笑えるのですが。
術後、ICUには父と母とお父さんだけが通されました。
母が言いました。
「扉の向こうにはみんながまだ残ってくれてるの」と。
うれしかったです。泣きました。
しかもそれまでは薬の投与が続くため、必然的に体力も落ちてしまうとのこと。
担当医は厳しく、私に体調管理の徹底を命じましたが、私は素直に言いつけを守る気になれていました。
それからの日々は病院側の管理に従い、また自己管理にも努めました。
体力を完璧なまでに維持し、車椅子の世話にもならなくなりました。
一見すると健康体かと思えるほど、血色も良くなりました。
カウンセラー室にも毎日通い、精神状態も良好でした。
ある時、カウンセラーの先生が私に質問しました。
「手術が終わった時、どんな気持ちだった?」
私はありのまま答えました。
「うれしくて、怖かったです」
「怖かった?」
「後から、実は成功率が低かったって聞かされて…。
もしかしたら俺は死んでたかもしれないんだって思ったら、震えました」
「…そっか。うん。
もう…この部屋に来てもらわなくてもいいかもしれないなぁ」
「…もうカウンセリングの必要がないってことですか?」
「そう。怖かったってことは、生きてるのがうれしいってことだからね」
その言葉と彼女の笑顔がとてもうれしかったです。
このまま順調に行けば4月末には最後の手術をすると、担当医が言いました。
そして前回よりも成功率は高くなるだろうとも。
担当医は「まず問題ないですね」と満面の笑顔でした。
その頃、私は気にかかっていたことがありました。
それはまさに今、開催されているだろう恵子ちゃんの書展のことでした。
守さんから聞いていた会期は4月一杯。
手術が成功しても退院まではまだまだかかることでしょう。到底、間に合いません。
恵子ちゃんの作品は入選ばかりか、
特別な賞まで獲得していました(賞の名前は失念しました)。
そのため5月以降は全国を盥回しにされます。
この機会を逃すといつ会えるのか見当がつきません。
ダメモトで担当医に懇願しました。二日、外泊許可をくださいと。
一日は書展のために、もう一日は恵子ちゃんの墓参りのためでした。
当然ながら担当医は難色を示しました。
ちょっと考えさせてと、すぐに結論はもらえませんでした。
ただし条件付き。
・外泊は一日だけ。横浜の自宅でのみ。
・外出してもいいが長距離はダメ。
・外出時は病院側の付き添い(看護士さんとカウンセラーの先生)がつく。
・その他、食事制限や細かなことetc.etc.
一日だけかとちょっと不満に思いましたが、
つい最近まで死にそうだった男なのですから文句は言えません。
恵子ちゃんには申し訳ないけれど、墓参りは退院してからということにしました。
そしてそれからはますますリハビリにも熱が入りました。
付き添いの母が外出したのでこれ幸いとばかりにこの文章を書いています。
(医者からパソコンは禁止されているのです。母は夜まで戻らない予定ですが、アップし続けるうちにこんな時間になってしまいました。大量過ぎですね。
親の目を盗んで悪さをしている小学生のように、今はドキドキしてます(笑))
入院中、何度もこのスレッドのことを思い出しました。
正直な話、スレッドを放置してみなさんに迷惑をかけたということよりも、
自分にとって大切な存在をほったらかしにしている…、そんな思いが強かったです(すみません)。
母が外出するとすぐにパソコンを起動しました。
そして先程このスレッドを発見し、とてもうれしく思いました。
過去にいただいたみなさんからのコメントを読み返し、涙がでました。
入院前のあの当時もみなさんのコメントに救われてきましたが、今はまた違った、もっと温かな感情が胸をしめています。
そこまで嫌悪されていたのか…と、正直、続きをアップするのを躊躇いました。
しかし…どうかお許しいただきたい。
「最後まで書き上げたい」という私のくだらない願いを、どうか許してください。
また、私の文章が創作であるとお思いの方々もいらっしゃいました。
ライターだった時の癖でついつい小説然とした文体となり、また内容も三文小説にも劣るものですから、そう思われるのも当然でしょう。
それに対し、創作ではないと証明する術は私にはありません。
勝手な物言いですが、みなさんのご判断に委ねさせていただきたいと思います。
それと、私の文章に似たスレッドがあるとおっしゃった方がおられましたが、私が2チャンネルに立てたスレッドはこれひとつです。
これまた証明する術はありませんが…。
純粋に待っていてくださった方。批判として保管してくださっていた方。
しかし、そのどなたにも感謝を申し上げます。
みなさんのおかげで、私は最後のけじめをつけることができました。
明日、私は恵子ちゃんの作品を観に行きます。
彼女の最後の作品です。
看護士さんとカウンセラーの先生(と、その息子さん)が付き添ってくれますが、きっと私は、憚ることなく泣いてしまうでしょう。
しかし明日は、明日だけは勘弁してもらおうと思います。
それで最後にしますので。
明日の夜には病院に戻ります。
私がこのスレッドに来ることももうないでしょう。
退院にはどれくらいかかるのか…それは私次第ですが、恐らく、その時にはこのスレッドはなくなっていることと思います。
みなさん、本当にありがとうございました。
長々と…本当に長々と失礼いたしました。さようなら。
今日は新しい旅立ちの日。
ガンガッテこのスレに帰ってこいや!!
全部読むのに2時間近くかかったよ…
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ゆっくり体治してまた何か書き込めよー