ハッとして部屋を見渡すが、先生の姿はなかった。
どこに行ったんだろう…そう思いながらテーブルに目をやると、何やら色々と置かれていることに気がついた。
缶コーヒーとペットボトルのお茶、フェイスタオルに小さなメモ用紙。
ー 今日は土曜日ですが、少し仕事があるので学校に行ってきます。
午前中だけなのでお昼頃には帰ると思います。
目が覚めたら顔を洗って、お茶でも飲んで待っていてください。 ー
メモには癖のある綺麗な文字で、そう書かれていた。
ふと壁に掛けてある時計をみると、大体11時半。
私は書かれた通りに顔を洗うと、ソファに戻ってお茶を一口だけ飲む。
ホッと一息つくと、昨日の出来事が思い出され、何とも言えない複雑な気分になった。
振り払うように大きく首を振り、ギュッと体育座りをする。
顔を埋めたシャツの袖から、洗濯物のいい香りがした。
少しだけ気持ちが軽くなったような気がして、私はその体制のまま先生の帰りを待った。
じっと座って暫くウトウトしていると、玄関の方からガチャっと音がした。
ビクッとして顔を上げる。
部屋の扉がそーっと開いて、先生が入って来た。
目が合うと先生はニッコリ笑う。
「あぁ、起きてましたか。よく眠れました?」
私が小さく頷くと、先生は「よかった。」とだけ言い、リビングの隣にある部屋に入っていく。
チラリと見えた部屋の中はカーテンが閉めっぱなしなのか薄暗く、ど真ん中に置かれているであろうベッドの陰が何となく見えた。
少しだけ開いた扉の向こうから、先生の着替える音が聞こえる。
私は急に恥ずかしくなって下を向いた。
どうしよう
まだまだ長く話が続くと思います。
どうかお気になさらずに、さっぱりしていらして下さい。
Tシャツとジーパンに着替えた先生は欠伸をしながらテーブルの脇に座ると、ハハっと笑った。
「昨日あんまり寝てないから。失礼しました。」
慌てて私は首を振る。
「ごめんなさい、私のせいです。先生に迷惑かけちゃいました…本当にごめんなさい。」
「いえいえ、お気になさらず。元はといえば勝手に連れて来た僕が悪いんですよ。………さて…」
先生はちょっとだけ真剣な顔をして、話し始めた。
「とりあえず、この状況を誰かに見られたらとってもマズイです。やましい事は何もありませんが、きっと誤解を招くでしょう。」
「はい…」
「なので、暗くなるまではちょっとだけココに居てもらいますね。大丈夫そうになったら、ちゃんと送りますから。」
「はい…」
「でも……失礼ですが、あの家に帰すのだけは僕も不安です。どこか代わりに帰れる所ってありませんか?」
「…………無いです」
私がそういうと、先生は困った様に笑いながら「ですよねー。」っと言った。
「困ったなぁ…どうしましょうか。」
先生が頭をポリポリとかいた。
返事ができずに俯いていると、先生はまた真剣な声になって話しを続けた。
「あの…非常に言い辛いのですが……」
私は黙って頷く。
「…児童相談所に連絡してみるのはどうでしょうか?
「ハッキリ言います。貴女がされたことはレ*プ未遂です。どう考えても貴女の新しいお父さんは異常です。」
ずっと頭の中で否定し続けていた言葉を言われ、私は堪らずうつむいた。
「明らかに虐待…いや、それ以上の酷い事です。渚さんはもうすぐ18歳ですがまだ高校生なので、きっと助けてくれるはずです。」
「……」
「他に身内も、頼る所も無いとなると、そうするのが一番最良だと思うのですが…」
私はブンブンと首を振った。
「…嫌です。」
「でも、このままじゃ貴女が…」
私は遮るように話し続けた。
「嫌です、絶対に嫌です!あの男に何をされたか話さなきゃいけなくなりますよね?私が保護されたら、地元の人たちにも何をされたかバレますよね?」
「でも…」
「嫌です、そんな事私には耐えられません!やっと友達も出来て、やっと普通に過ごせているんです!それを壊してしまうような事、私には出来ません!」
堪えきれず涙が溢れてくる。
あの家は確かに怖かった。
けれどもそれ以上に、小さな田舎の噂話の方が怖ろしい事を、私は知っていた。
この件が表沙汰になれば、実際は未遂で終わった事でも、私は義父にヤラレチャッタ女として周りから見られてしまう。
そうなるともうこの町には居られなくなる。友達にも一生会えなくなる。
私にはそれが耐えられなかった。
まぁ先生の立場としてはそれが最善だと思うわなぁ
「……ですよね。」
ぽつっと呟く。
「………ごめんなさい。」
滅茶苦茶な事を言っているのは、十分すぎるほど理解していた。
それからまた、長い長い沈黙。
私は居た堪れなくなって、もう一度小さく「ごめんなさい。」と呟いた。
「自分の…」
ずっと黙っていた先生が、下を向きながら話し始めた。
「…自分の身は自分で守れますか?」
私は「え?」と聞き返した。
「あと一年……自分の身は自分でしっかり守れると、そう約束できますか?」
先生は私を真っ直ぐ見つめると、搾り出すようにそう言った。
私は少しだけ考えた後、大きく頷いた。
「……わかりました。でもこの次に何かあった場合、僕は躊躇なく通報します。それでもいいですね?」
「はい。…構いません。」
「…僕が女性だったら良かったんですけどね……」
私はまた、下を向いた。
「……僕、ずっと心配だったんです。」
「え?」
予期せぬ言葉に、驚いて先生を見る。
「…僕が赴任してきた頃……渚さん、虐められてたでしょう?」
先生は私を見ずに話を続けた。
「虐められてるのが解って…何とかしてあげたいのに、僕には何も出来なくて……
せめてもの償いのつもりで、歌のレッスン引き受けたんです。」
「………」
「…少しでも支えになれば…そう思って始めたんです。そしたら渚さんはどんどん明るくなっていって、友達も出来て…あぁコレで良かったんだって。
京都行きの話が来た時…正直少し迷ったんですけど、今の渚さんなら大丈夫だろうと思って決心したんです。」
私は黙って頷いた。
「そしたら泣いてる渚さん、見ちゃったじゃないですか。…良かれと思ってやった事で、僕はこの子を余計に傷つけてしまったんじゃないかと後悔して…。
手紙も出そうかどうか、本当は迷ったんです。でも、渚さんの先生に会えて良かったって言葉がどうしても頭から離れなくて…」
先生は恥ずかしそうに頭をかいた。
「教師としての自信を無くしかけていた時に言われた言葉だったし…自分が誰かに必要とされた事ってあまり無かったから、余計に嬉しかったんです。」
私が質問すると、先生は苦笑いしながらハイと頷いた。
「お恥ずかしい話ですけど、僕にもちょっと色々ありまして……まぁこの話はやめましょうか。」
先生はアハハっと笑った。
「本当はいけない事なんですけど、僕は渚さんの事が、大事な歳の離れた妹というか…そんな風に思えてしまうんです。」
ムネがギュッと痛んだ。
「大事だから、貴女がまた傷ついたり、傷つけられたりするのが怖いし嫌なんです。だから…絶対に絶対に自分を守ってください。」
私はまた、大きく頷いた。
「元教え子をそんな風に思うなんて、僕もダメな大人の一人ですね。」
先生は私の目を見ると、何だか哀しそうにニコッと笑った。
夜も更けてゆき、私は先生に家の近くまで送ってもらうと、絶対に約束は守りますと改めて宣言した。
先生はいつものようにニコっと笑うと、「絶対ですよ。」とだけ言った。
テレビを見ているであろう男と、あいかわらず鼻歌交じりで台所に居る母を無視するように通りぬけ、部屋に戻ってガチャガチャと小物入れを漁る。
「あった…」
随分と昔に買った南京錠。
役に立ちそうな物を部屋中を漁ってかき集め、何とかドアに鍵をつけると、私はやっとホッとしてベッドに座った。
これでひとまず大丈夫…あとは日中どうやって身を守るかだ。
小さな頭で必死に考えた。
まず就寝時や家に居る間は常に部屋に鍵をかけて閉じこもる。
お風呂は母が居る時のみ。
男が休みであろう時は、どこかに出かける。
なるべく二人と顔を合わさずに生活をする。
やれるべき事を一通り考え終わった頃、ふと先生の言葉が頭をよぎる。
「大事な歳の離れた妹…」
私は、いつもとは違うムネの痛みを感じていた。
寝に帰っても二人には一切会わず、家では極力空気のように過ごした。
先生とも会う事はなく、ただ、メールでだけは毎日連絡を取り合っていた。
おやすみとおはようの挨拶だけの、ある意味安否確認のようなメールだった。
それだけでも何だか先生に守られているような気がして、とても心強かった。
季節は梅雨に入る。
いつものようにバイトを終えて家に帰ると、電気こそ点いてはいたが二人は居なかった。
珍しい事もあるもんだ…と部屋に戻ってゴロゴロしていると、ガタガタと誰かが帰ってくる音がした。
もう帰ってきちゃったか…と溜め息をついていると、足音はまっすぐこちらにやってくる。
ビクッとして身構えていると、扉の向こうから「オイ!」と男の声がした。
「……何ですか?」
緊張しながら返事を返す。
「ガキ、産まれたから。男。」
「…そうですか。」
それだけ言うと、男は部屋の前から去っていった。
「なぎ~~~~♪」
帰ってきた私に気がつくと、母は赤ん坊をだっこしながら嬉しそうに近寄ってきた。
「みて~~~~弟よ~~~~♪かわいいでしょお♪」
母は抱っこしろと言わんばかりに、赤ん坊を私に差し出した。
私は弟をチラっとみると、
「ふーん…」
とだけ言ってそそくさと部屋に戻った。
急いで扉を閉め鍵をかけると、リビングから母の喚いている声がした。
なんだか疲れてベッドにつっぷす。
血の繋がった弟が可愛くない訳じゃない。
ただ、そこで抱いてしまったら、二人との関わりが一瞬で出来上がってしまうようなして怖かったのだ。
母はわざわざ私の部屋の前まで来て何か叫んでいたが、私はイヤホンをつけるとただひたすらに無視をした。
高校最後の夏休みが始まる。
母とはあれから一切話すことも顔を会わせる事も無く、たまに赤ん坊の泣き声こそ聞こえてきたが、三人がどんな生活をしているのかさえ知らずに過ごしていた。
弟に罪はないんだろうけどなぁ
環境って大事
私はドスン!!!!という物凄い衝撃で目が覚めた。
ビックリして飛び起きると、一階のリビングから叫び声と赤ん坊の泣き声、男の怒号が聞こえてきた。
時計を見るとまだ夜中の3時頃。
急いで下に降りると、荒れ果てたリビングでは、血だらけの二人が取っ組み合っていた。
「ちょっと!なにやってんの!!!!!」
驚いて二人を引き剥がそうとする。
瞬間、物凄い力で吹っ飛ばされ、私は強かに背中を打った。
痛みで息が出来ない。
苦しくて悶絶していると、母はギロ/リとこちらを見た。
般若のような恐ろしい顔に、背筋がゾッとする。
母は何か絶叫しながら喚いたと思うと、物凄い速さで私にナグりかかった。
ガツン!と目の辺りをナグられる。
反射的に私は母を突き飛ばした。
勢いよくキッチンまで吹っ飛ばされた母は、今度はその場にあった包丁を握ってこちらに向かってくる。
「おい!!!!!!!!!」
流石に男が母を止めに入る。
男に強く腕を握られた母は、包丁を床に落とした。
私は苦しさと恐怖と混乱で固まっていた。
「このアバズレ!!!!!!糞女!!!!!」
母は男に押さえつけられながら、私にそう叫んだ。
訳がわからず更に混乱する。
「ガキの分際で人の男に手ぇだすなんてなに考えてんだ!!!!!!!!!!」
血走った母の目が合う。
「なに…言ってんの…?」
私がそういうと、母はまた言葉になっていない言葉を絶叫しながら喚いた。
人の男?誰の事?堺先生?まさかそんな訳がない。
「部屋に鍵なんかつけやがって!!!ヤッてる最中見られないように鍵つけたんだろ!!!」
そう言われた瞬間、私は母がなにを言っているのかを少しだけ理解した。
母は、私と男が出来てると思い込んでいるのだ。
驚いて言い返す。
「何訳わかんないこと言ってんのよ!」
「嘘つくな!!!!!!全部知ってんだからな!!!!!!」
話にならない。
「大体何がどうなったらそういう風に見えるんだよ!!!」
私がそう怒鳴ると母は一瞬だけ黙り、今度は泣き叫びながら話し始めた。
要約すると、
母と男が事に及んでいる最中、男は間違って私の名前を言った。
驚いた母が問い詰めると、焦った男は体を少し触っただけで何もなかったと言い訳をした。
体を触ったという事はお前らデキてたのか!と母が男にナグりかかると、男はアイツが誘って来たんだと嘘をついた。
逆切れした男は、大体子供ができさえしなかったらお前みたいなババアと結婚なんてするかと、
お情けで一緒に居てやってるんだから、娘の私の体は報酬みたいなもんだと、母に言ったらしい。
頭がクラクラした。
そう言った私を、母は睨んだ。
「…オマエなんて産まなきゃよかった…オマエのせいで…オマエのせいで…」
母は恨み言のように、私を睨みながらそう言った。
瞬間、私の頭の中で、何かが弾ける音がした。
さっと立ち上がって2階に駆け上がる。
逃げるのか!!!!っと母の声がした。
部屋に入り、床に放り投げてあったカバンを引っ手繰るように取ると、私はまた階段を駆け降り玄関へ向かう。
「ふざけんな離せぇぇええ!お前もあいつも殺してやる!!!!殺してやる!!!!」
リビングを抜ける時、まだ男に取り押さえられていた母は、そう叫んだ。
私は突っ掛けるように靴を履くと、急いで玄関から飛び出した。
そんな事ない、クズは男だけだ
母親のことは>>1もそんな風に言われたくないんじゃないだろうか…
ほんの少しだけ明るくなって来ていた空では、カラスだけが鳴いていた。
頭が働かず、しばらくぼーっと歩いていると急に体が痛み出して、私は近くにあったバス停のベンチに腰をかけた。
携帯を取り出す。
家に居た時間はとても長く感じたが、実際には起きてからまだ30分くらいしか経っていなかった。
ふと、先生の顔が頭をよぎる。
妙に冷静になり、さすがにこの時間に電話をするのは迷惑だと思って、私は先生にメールを送った。
「家出しちゃいました。」
メールを送ってすぐ、先生から電話が掛かってきた。
ちょっとだけビックリしながら、電話をとる。
「もしもし?どうしたの?何があったの?」
先生との電話は、毎回この言葉から始まってるな…なんとなくそう思いながら、私は事の経緯を簡単に話した。
電話の先で、先生が暫く黙り込んだ。
繋がっているのか不安になって、私は「先生?」と話しかけた。
「…………今、どこにいるんですか?」
先生は静かな声で聞いた。
バス停の表札を見る。
「…**前のバス停のベンチに座っています。」
「すぐに行きます。そこで待ってて。」
先生は電話を切った。
さっきの先生の少しひんやりした声を思い出し、私はやっぱり迷惑だったんだな…とメールをした事を後悔した。
私のまん前に停まると、先生は中から助手席をガチャっと開けて「乗って。」とだけ言った。
何だか少し怖くて、私は慌てて車に乗った。
ベルトを締めて、下を向く。
先生はそれを確認すると、車を発進させた。
嫌な沈黙が続いた。
結局一言も喋ることなく駐車場に着くと、先生は車を降りた。
それを見て、私も慌てて車を降りる。
先生は少し早足に玄関に向かい扉を開けると、「入って。」とだけ言った。
私はやっぱり何だか怖くて、急いで中に入った。
重苦しい沈黙が続く。
そーっと先生を見ると、無表情でどこか一点をじーっと見つめていた。
私は堪らなくなって、先生に謝った。
「ごめんなさい、迷惑だってわかっていたのにメールなんかし…」
言い終わらないうちに、私の体はグイっと引っ張られた。
ビックリして息が詰まる。
一瞬頭が真っ白になった後、私は先生に抱きしめられていることに気がついた。
突然の事に暫く固まっていると、先生はそーっと少しだけ体を離した。
キョトンとしている私の顔をジッと見つめる。
そして私の左のコメカミ辺りを見ると少し苦しそうな顔になって、また私をぎゅうっと抱きしめた。
「…先生……?」
私がやっとで呟く。
「ごめん…ごめんなさい…やっぱりあの時、帰すんじゃなかった…帰すんじゃ……」
先生は苦しそうに言った。
その途端、私は堪えきれなくなって先生をぎゅっと抱きしめ返すと、声をあげてわんわん泣いた。
あれから暫く泣き続けた私は、疲れてぼーっとした頭でソファにだらりと座っていた。
クーラーの効いた部屋が、ひんやりして心地いい。
「…はいどうぞ。」
先生が少しおしゃれなコーヒーカップを目の前のテーブルに置くと、私は小さな声で「ありがとうございます」と言って床に降りた。
先生もこの間と同じように、私の方を向いて床に座った。
コーヒーのいい香りと苦味で、頭がだんだんシャキっとしていく。
ちらりと先生を見る。
こちらを見ていたらしい先生と、パッと目が合った。
なんだか恥ずかしくなって、私は視線をそらして下を向いた。
「あの…さっきはその…すみませんでした。」
先生が恥ずかしそうにそう言った。
私はブンブンと首を振る。
「自分でも何であんな事したのか、よく解らないんです……ごめんなさい。」
「いえ…」
先生はまた、いつもの顔に戻っていた。
「顔…大丈夫ですか?それ以上、腫れないといいんだけど…」
私は自分のコメカミを触った。
母にナグられた所が少しだけ熱をもってはいたが、不思議と痛みは引いていた。
「大丈夫だと思います…今のところ痛くは無いです。打ち所がよかったのかな?」
私が苦笑いしながらそう答えると、先生はクスっと笑って「そうですか」と言った。
なんですか?っという視線で先生を見る。
「……………しばらくの間、このままココに居座っちゃいなさい。」
驚いて聞き返す。
「え!?」
「居座っちゃいなさい。」
先生は相変わらずニコニコしていた。
「でもそんな事バレたら先生が…ダメです、絶対にダメです!」
「大丈夫大丈夫。」
「大丈夫じゃありません!ダメです!私、先生の人生まで壊したくありません!」
「壊れる?僕の人生が?どうして??」
先生はわざとらしくキョトンとした顔をした。
私は一呼吸ついて、話を続けた。
「もしバレたら、先生は学校を辞めさせられるかもしれません。もしかしたら逮捕とかされちゃうかも知れないし…」
「逮捕?大丈夫大丈夫。仮にされたとしても、容疑がかかるだけです。すぐに釈放されますよ、現に何もやましい事はして無いんだから。」
先生はアハハと笑うと、そのまま続けた。
「それに………学校をクビになっても、別に人生終わりませんよ。それだけが僕の全てじゃ無いです。」
「でも…」
「稼ぐ方法なんていくらだってありますしね。僕、こう見えてもピアノが得意なんですよ。」
先生は自慢気にそう言うと、私を見つめてニコっと笑う。
私は思わずプッと吹き出した。
「お金?ハハハッ、気にしないで。部屋はこんなだけど僕、実はかなーーーりお金持ちですから。」
「でもそんな訳には…。」
「子供はそんな事、気にしなくていいの。」
先生はそう言って笑うと立ち上がり、寝室に入っていった。
本当にいいのだろうか…大丈夫なんだろうか…そんな事を考えていると、先生はすぐに戻ってきた。
テーブルの上に、何も付いていない鍵を置く。
「はいこれ、渚さんの分。」
驚いて先生の顔を見る。
「しばらく居るんだから、無いと不便でしょう?」
「でもっ」
「いいからいいから。無くさない様に、大事に持ってて下さいね。」
先生はそう言って時計を見ると、大きく背伸びをした。
「あーもう朝だ。仕事に行く準備しなきゃ。」
時計は6時を回っていた。
先生との短い同居生活が始まった。
先生が出掛けて少し経ってから、私は周囲に人の気配が無い事を確認すると、そーっと先生の家を出た。
夏休みで学校は休みといえど、高校3年になった私は就職活動をしなければならない。
その為に必要な物と、あとは生活に必要な物を少しだけ取りに、私は一旦家に戻った。
家に着き、緊張しながらドアノブを回す。
鍵は掛かっていなかった。
「………」
注意深く家の様子を探る。
テレビの音だけが、かすかに聞こえた。
私はそっと足を踏み入れると、なるべく足音を立てないようにリビングに入った。
荒れ果てたリビングではボロボロになった母が、ぼーっとテレビを見つめていた。
母に動く気配は無い。
男と弟の姿も、どこにも無かった。
そんな母を無視するように二階に上ると、私は急いで荷物を詰め、またそーっと一階に降りた。
母は変わらず、テレビを眺めていた。
「………暫く戻らないから。」
私は何となく母に言った。
母はテレビを見つめたまま小さくコクっと頷いた。
なんともいえないムネの痛みが、気持ち悪かった。
バイトは休みを入れ、就職活動に必要な時のみ外に出た。
私は先生のベッドを宛がわれ、先生はソファで寝た。
洗濯物は3日に一回、先生と別々にして回した。
私が水道代の心配をすると、先生は「僕はお金持ちですから。」と言って笑った。
夕飯は先生が買ってきたものを食べた。
一応、朝昼分も用意しておいてくれたのだが、なんだか申し訳なくて食べられなかった。
お風呂は先生の居ない間に入る決まりになった。
理由は、先生が恥ずかしいからだそうだ。
少しずつ、ルールが出来ていった。
普段、先生と私は同じ空間に居ても、特にお話をしたりテレビを見たり遊んだり…という事は無かった。
先生は先生、私は私で好きに過ごし、夜中の一時位になると「寝ましょうか。」といって布団に入る。
先生は本を読んでいる事が多く、私は邪魔にならないようにイヤホンで音楽を聴いていた。
そんな不思議な生活を、送っていた。