ここからは、本当に辛い思い出を書くことになります。
もしかすると、キーを打つ手が鈍ることもきっとある、と思います。
そんな時もどうかご容赦を戴きたい、と思います。
一瞬にして断ち切られることになった。
つまり、本来の出口でないところから便が出る、と言うことは、
腸が破れてしまっている、と言うこと、そして閉じた膣奥が開いてしまった、と言うことなのだから。
頻繁に腹痛を訴える妻は、それでも救急車を呼ぶことを拒んだ。
まるで押し問答のような日々、そう長くはなかったが、最後は余りの痛さに救急車を呼ぶ事を承諾してもらった。
「な、病院で痛みを取って貰おう。そうしたら、またきっと笑えるようになるよ。」
僕も息子も、半分泣きながらではあったが、妻を精一杯元気付けようと必タヒだった。
痛さの余りにショック状態の妻。平日の夜中の救急で指定された病院へ付き添う。
思えば、妻が自宅に戻ることは、それ以来もうなかったのである。
続きます。
妻が搬送されたときに着用していたTシャツなどは、病院での着衣に着替える為に、鋏などで裁断されたのだが、
僕は未だに、それらが捨てられずに居る。気持ちの悪い奴だ、と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、
どうしても出来ないのだ。
救急で搬送された病院で、落ち着いて眠りについた妻と処置室で一夜を明かし、
翌朝、以前化学療法を施してくれていた総合病院へと救急車で運ばれてゆく妻。
救急車には妻に付き添う息子が乗っている。
僕は、その救急車を見送るときに、付いて行くための自分の車に乗り込んだ瞬間、
溢れ出る涙を抑えることが出来なかった。声を上げて号泣した。何度も妻の名を呼んだ。
何も事態は変わらないのに。
妻の、延命ではなく、終末緩和医療が始まった。
とにかく優先するのは妻の苦痛を最大限に和らげること。
はるか昔に、妻と二人で、そのときを想定すらしていないときに二人で決めた約束事。
最期は、眠るように、と言うこと。
とうとうそのときがやってきたのだ。
それでも僕は、まだ覚悟なんてこれっぽっちも出来ていなかった。
ヘタレの極致、ですよね。
続きます。
段々ウザくなってきたわ。
ここはそのための場所だと思うし。
>>358も色々思うところはあるだろうが、ちっと辛抱しようや。
今日は、嫁の好きだった真澄で晩酌。
そろそろひやおろしがうまい季節だ。週末買ってこようと思う。
サゲ方も知らない僕の書き込みをお許し下さい。
この話ももう少しで終わります。
今日はもう事務所を出て、家事をしに帰らなければなりません。
さっきの書き込みの後、歳甲斐もなく泣いてしまっていました。
明日で終わりにします。
ですので、もう少し、ご辛抱を賜りたいと存じます。
おやすみなさい。
お疲れさん
「E-mail (省略可) :」の横の欄に半角英数でsageと入れるといいよ
煽る奴らは気にするな
お前さんの辛い気持ちをわかってる人はここには沢山いるぞ
……ネタ?
なんでそうお前らはムキになるんだ?
面白い話や泣ける話が読めたら、それでいいだろ。
つまらん話なら読み飛ばせばいいだけの事。
「あれはネタだ、俺には解る」なんてみっともない事すんなよ。
応援して下さる方々、有難うございます。
妻の終末医療が始まった。
搬送されたときのショック症状も和らぎ、安静にして眠っている状態。
担当医の意見では、
「腸間膜に豆が撒かれているように一杯転移している。手術などで取りきれるようなものでは既にない。
それが腸へ栄養を運ぶ血管を圧迫して塞いでいる状態。遠からず腸が壊タヒをして、
恐らくはそれが原因となるタヒ、ということになるだろう」とのこと。
一月持てば良いほうだそうだ。
それでも覚悟の出来ない自分。しかしそれよりも、妻との約束で僕は頭が一杯だった。
「苦痛だけでも取って頂ける方法というのは在るのでしょうか?」と尋ねると、
「もう、小腸から先は機能していないと思われますので、何も食べられないし、飲めません。
点滴で維持するのみですが、それでも段々と弱って来るでしょう。苦痛の方ですが、
痛みについては、モルヒネなどのパッチや点滴を使うことにより和らぐものと思います。
ただ、どうしても痛むようでしたら、そのときは最後の手段として、ドルミカムを使って意識レベルを下げる方法があります。
ただ、そうなると、もうずっと眠っていることになりますから、お話も出来なくなります。」とのこと。
…妻との約束、それにはこの方法しかないということらしい。
必ずやって来るお別れに対して、カウントダウンが始まった。僕たち家族の時間はどんどん減っていくのみだ。
続きます。
苦痛の取れた妻は、最初はまるで今までと変わらぬ様子だった。
しかし、排便排尿の必要もない妻は、もうそれからベッドに寝たきりになってしまった。
元々体格の良かった妻は、そのときにはもう手足が萎えてしまい、自分で上体を起こすのが精一杯だった。
僕は毎日、出勤前と帰宅前には病院に寄り、土日祝日はそれこそ一日中、妻の傍にいた。
時折、家事をしに帰らねばならなかったが、車で5分ほどのところであり、
息子も、学校帰りには帰宅前に立ち寄ることが日常となっていた。
父は相変わらず、というか、前にも増して酒を飲むようになっていた。
病室で妻の身体を拭いたり、髪を洗ってあげることに僕は喜びを感じていた。
やがて確実に来る別れを、僕たちは意識的に話題にしないでいた。
他愛もない世間話や、世間ではこんなことがあったよねえ、なんて、
まるでお茶の間での話のように、なるべく僕たちは笑って日々を過ごしていた。
時折来る痛みを訴えれば、僕がすぐにナースコールを押して、鎮痛剤を注射してもらったり、
手足にダルさを感じればさすってあげたり、今思えば、すごく凝縮された日々だったと思う。
続きます。
内憂外患、と依然述べたが、そのうちの一つが義実家だった。
妻の母親も、無事に手術を終え、今では自宅に戻って普通に生活しているとのことで、
僕は義母に面会に来てくれるようにお願いしてみた。いつどうなってもおかしくない妻の状態では、
話が出来るうちに逢って貰っていた方が良い、と思ったからである。
しかし電話でのお願いに、妻の母親はそれを断ってきた。
「そんな状態の娘を見たら、私が落ち込んでしまうから」との理由で。
僕は親子ってそんなものなのか?という疑問を抑えて、了解した。
しかしその翌日に、義兄から電話が掛かってきた。
「こんな状態の母親になんと言うことを持ちかけるのか?それで体調を崩したらどうしてくれる?
俺にはもう肉親は母親しかいないのだから、もしこれで母親がどうかしてしまったら、俺は一人になってしまうではないか!」
と、激昂した口調での電話だった。僕は感情を抑えて話した。
「もう妻と会話できる機会がなくなるかもしれません。何か方法は無いでしょうか?」と。
義兄は、「もうお前のところに嫁にやったのだから、うちの姓(旧姓)ではなくなっているんだし、
そっちはそっちでやってくれ。こっちも大変なんだから。」と言われてまでは、こちらも食い下がる訳にはいかなかった。
結局、義母は、葬儀の日まで来ることはなかった。義兄はこの日以来、僕のことを好ましく思わないようになった。
続きます。
自分の親兄弟が来ないことを知った妻は、少し寂しそうな顔をしながらも笑顔で云った。
「みんなそれぞれ大変だもんね。一つお願いしても良いかな?」と。
妻の提案とは、ビデオレターを撮ることだった。
体調の良いときを選んで、自分の実家関係の世話になった人、そして昔からの友人達、
もう逢って話が出来ないだろうという人に対して、それぞれ短いながらも妻はメッセージを残した。
「何もかもが済んだら、それぞれ分けてあげてね」と。
撮るときには、最後お互いが泣いてしまうようなときも在ったが、それでも必ず、有難う、と言う言葉があった。
父にはビデオレターは当然、無かったが、それは僕に対しても同じく、無かった。しかし、息子に或る物を残したい、と妻は云った。
「あの子が二十歳になったら、これを見せてね。」と妻は、成人式を迎えたであろう息子を想定してビデオレターを撮った。
「二十歳になった○○(息子の名)へ。
どんな大人になってるのかなあ?目標には届いていますか?
人の気持ちのわかる、いい人になってると良いなあ。
そして良い彼女がいて、良いときを過ごしていたら良いなあ。
お母さんはずっと見させてもらっているからね。
じゃあね。」
…だめだ、泣けてきた。チョット仕事落ちします。
ごめんなさい。
続きます。
少し落ち着いたので、吐き出してしまいます。
搬送されたときには、10日以内に来るべきときが来る、と言われていたにもかかわらず、
妻はとても頑張ってくれた。
痛みを和らげるパッチの数も増えていったけれども、その恐怖を口にすることはとうとう無かった。
その意味では僕より遥かに潔く男前だったかも知れない。僕には出来ないかも知れないからだ。
しかし日に日に痛みが増していく。とうとう決断のときが来たようだ。
気が付けば搬送されてから40日が経っていた。
そして投薬開始の日。ちょうどそのときは僕は仕事を抜けられなかった。
付き添っていたのは息子だった。二人はたくさん話が出来たようだ。
「おやすみなさい」と二人は会話を締めくくったらしい。
その日、僕には妻からメールが来た。
もう携帯すら持てなくなっていた妻は、口述で息子に僕宛のメールを打たせたらしい。
「私は眠ってしまいますけど、毎日逢いに来て下さい。
寝てしまってちゃんと相手が出来ないかもしれませんが、
眠っていても私はわかっていますからね。
おやすみなさい○○(僕の名)さん。愛しています。」
僕は不覚にも、職場で携帯を握り締めて嗚咽してしまった。
続きます。