その夜、仕事が終わって、まっすぐ病室に向かうと、妻は穏やかに眠っていた。
今にも目を開けて「お疲れさん、お帰り」なんて云いそうな感じで。
意識レベルを下げる、と言うことは、痛みを感じにくくなっているかもしれないが、
同時に、痛くて苦しくても、それを訴えることも出来ないのだ、と言うことを意味した。
僕のこれからの仕事は、妻を快適に眠らせることだった。
一定の時間が来たら、姿勢を変えてやる。チョットやそっとでは起きないらしいので。
床ずれを出来るだけ防ぐには、それしかないそうだ。母のときに、床ずれで苦しんだことを思い出していた。
まるで植木や花に語りかけるように、僕は眠っている妻に語りかける日々が続いた。
出来るだけ注意して、苦しんでいないかどうかを見ていたけれど、
総合病院でのこと、やはり一人の患者に24時間体制では看護士が附け切れないものだ。
腫瘍熱の所為で汗ばんでいる妻の身体を拭き、額や脇、鼠頸部を冷やしているタオルを交換したり、
僕の主な仕事はその繰り返しだった。もう数日の問題だ、とも医者に云われていた。
ある日僕が仕事が終わって、病棟のエレベーターを降りたとき、妻のうめき声が聞こえたので、
すぐに姿勢を換えてやると、僅かににっこりとしたのは、僕の気のせいなのか。
病室も個室に移り、何かの感染症のきらいもあるので、マスクに帽子、簡易白衣を着て手袋をしてしか病室に入れなくなっていた。
そんな日々も約10日ほど経ったある日、僕は病院のデイルームのソファーで仮眠を取っていた。
この10日ほどはバイタルの値も安定していたのだが、それでも血圧が僅かずつ下がってきていて、
それがある値に達したら危ない、と言われていた。
そして金曜の仕事が終わり、病室から一旦自宅へ戻ったその夜明け前、
僕の携帯がなった。病院からだった。
続きます。
「血圧が下がってきています」との事だった。「すぐ来て下さい」
僕も息子も、病院へダッシュした。
病院へ着いたら、「安定しました」との事。いささか拍子抜けしたが、何より安心した。
その日、僕は、なんだか身体が熱いことに気が付いた。自分の身体が、である。
考えると3日ほど風呂にも入れていない。土曜の日中に来た見舞いの親戚達の相手をした後、
息子と付き添いを変わってもらい、一旦自宅にシャワーをしに戻った。
熱を測ってみると、41度である。でもぜんぜんしんどくなかったのだ。
今寝込む訳にもいかないし、身体も他は全く問題なかったので、父も連れて病院に戻った。
息子と交代し、息子が自宅で食事と風呂に入ってきたので、夜になり酒が切れてむずがる父を一旦自宅に連れて帰った。
そして家に着いたまさにそのとき、息子から携帯に電話があった。
「血圧がどんどん下がっています。すぐに来て下さい」と。
続きます。
ここ数回の投稿が、332になっていました。ごめんなさい。全て334です。
病院に着くと、個室とナースステーションを行き来する看護士の姿が見えた。
妻との約束で、決して人工呼吸器などはしない、というのがあったので、
自力での呼吸が止まるといよいよとなる。尿が止まって2日経っていた。
妻の身体は腫瘍熱により僕より熱い感じがした。
もしかしたら、同じ感じを伝えたかったのかも知れない、と僕は解釈することにした。
なんだか、理由も無く誇らしかった。きっと熱でイカれていたのであろう。
血圧が少し持ち直し、少しほっとして、その夜は酒を飲みそびれて機嫌の悪い父と、
息子と僕の3人で交代で様子を見ていた。そして明け方近くになって、息子が付き添っていた。
僕は病室を出てすぐ隣の待合ソファーのあるところで横になっていた。
突然、息子が泣きそうな顔で出てきた。
今までに無い血圧の低下らしい。主治医がやってきて、あれこれ看護士に指示をしながら
僕たち3人に入るように促した。
もう、マスクも帽子も手袋も白衣も要らないらしい。
もしかすると、そのときを個室で迎える為の配慮だったのかもしれない。
「ご主人、息子さんも手を握ってあげていて下さいね。」
僕の手よりも更に熱い妻の手を握り締めていた。
いよいよその時が来たのである。
東向きにベランダの在るその病室の大きな窓から、朝日が差し込んできた。
妻は晴れ女だった。そしてまさに、まさに眠るが如く、静かに息を引き取った。
僕は息子をしっかりとハグした後、妻に向き直り、
いろんな計器や管を取り外されて身軽になった妻に語りかけた。
「長い間、良く頑張ったね。お疲れ様。」妻の頬をなで、その顔を覗き込むようにして。
溢れる涙は抑え切れなかったが、それでも微笑んで、精一杯微笑んで言った。
妻の長い戦いは終わった。
癌が見つかって余命3ヶ月、長くて半年、と言われてから6年と8ヶ月が経っていた。
…なんかもう顔がぐしゃぐしゃです。今日で終わりにする、と言っておきながら、
今日は最後までもう書けそうにありません。ごめんなさい。
明日には全てを書き終えます。
今日は今から帰って、家事をします。おやすみなさい。
明日に続きます。
乙
今夜はゆっくり休んでくれな
乙、
書くことで、気持ちが楽になるなら書いてくれ。
無理はするなよ。
しっかり吐き出せよ。
好きなときに、好きなだけでいいさ。
おまいさんの体が心配だ。
>>380が義兄や義母も自分の実の兄、実の母と思って面倒を見る
というつもりがないなら、仕方ないんだよ
向こうは380よりも経済力が圧倒的に無い。
自分らの事で精一杯なんだ
温かいお言葉を掛けて下さる方々、有難うございます。
今日で書き終えようと思ったのですが、義母の体調が思わしくなく、
仕事が終わったら直ぐに隣市へ向かわなくてはならなくなりました。
誠に勝手な言い訳で申し訳ないのですが、この週末は義母の世話をしに参りますので、
どうかご容赦を下さい。
おやすみなさい。
律儀な人だな。体調大丈夫かいな・・・
おかげさまで義母の様子も小康状態を取り戻したようで、数日後に退院できるようになりました。
妻の身体から色んな管やコードが外され、酸素マスクが外されたとき、
妻が亡くなったのだ、と言うことを思い知らされた。
手を握ると、まだ腫瘍熱の名残で充分温かい。まだ生きているようだ。
しかし、もうあの荒い呼吸をしていない。
力なく口を僅かに開けたまま、妻の目が開かれることはもうないのだ。
僕は暫く、阿呆のようにただ妻の傍に腰掛け、じっとその顔を見下ろしているだけだった。
母が亡くなったときには、その臨終には間に合わず、今のこの妻の状態と同じときに病室に駆け込んだんだなあ、と今になって思った。
「まだ温かいじゃないか」同じ台詞を口にしていた。
汗をかいていた妻の顔をタオルでゆっくりと拭いてやりながら、汗っかきが悩みの種だった妻を、もう汗をかくこともないことを寂しく思った。
何か色んな書類を受け取り、それと並行して簡単なタヒ化粧と清拭をしてくれていたようだった。
元々アイライナーの不要なほどクッキリ眼だった妻。唇には紅が差してあった。
葬儀会社の方が妻の亡骸を引き取りに来た。担当医と少数の看護士に見守られて、亡くなった患者だけが通る通路を一緒に出た。
葬儀会社の車に妻を載せ、葬祭会場へ運ぶのだ。妻を載せた車には、息子が同乗して行った。
世話になった担当医と看護士の皆さんに心から厚く御礼を申し上げ、僕は、朝日の強く照らす中、病院の外周を歩いて回って自分の車を留めてある駐車場に向かった。
歩きながら、自分の足が地面に着いている感覚が無かった。
いつかこの日が来ることは解っていた筈なのに、とうとう僕は最後までその覚悟が出来ないままこの日を迎えてしまった。7年前に母を亡くし、その喪主を父にマル投げされ、あたふたとするままに色んな法事を迎えた直後に発覚した妻の癌。
それから6年と8ヶ月、目まぐるしくも、本当に沢山の事が在り、長く感じることもなく、実にあっという間のことのように思えた。まるで他人事のように、ゆっくりと思い出されては、消えていった.
続きます。
葬儀会場に着くと、その控え室のようなところに妻は安置されていた。
葬儀社の方が妻の身体の周りに、ドライアイスをセットしていた。
その間に僕は、息子には妻の傍に居てあげるように指示をし、息子の学校関連に連絡をし、一両日の忌引きの旨を伝えた。
僕の知人関係にはccでのメールで知らせた。また妻の知人達には、何故か一人ずつメールや電話でお知らせをした。また、妻の実母や実兄には電話をしたが留守電だったので、その旨を吹き込んでおいた。
返信はその日には無かった。
妻が運び込まれたとき、その葬祭場には既に告別式の方が居られ、僕たちは控えの棟で待機することになった。また翌日が友引だった為、妻の通夜は更にその翌日と言うことに決まった。
この控え室に二日居ることになったのだ。
必要な書類などを近くの自宅に取りに帰ると、父は相変わらず酒を飲んでいた。
「写真を選ばなくてはならんのー」と、心なしか嬉しげに見えた。少しイラッとした。
「明日が友引と言うことで、通夜は明後日、告別式はその翌日となります。こちら(自宅)に電話や訪問者があれば、その旨お伝え下さい。」と父にお願いすると、
「そんなことは全て、喪主のオマエの仕事と違うんか?ワシはそんなことよりも、母親を亡くした○○(孫:僕の息子)の事が可哀相で、呑まにゃおれんのじゃ。」とのたまう。
続きます。
反論する気もなくした僕は、そのまま家を後にし、町内会の隣保の世話人に、この度のことを伝え、町内放送でのお悔やみのお知らせ(これは町内会のルールでもあるので)をお願いした。
お腹も空いたであろう息子のことを考え、とりあえず弁当を何食か買って葬祭場の控え室に戻ると、妻はすっかりドライアイスに周りを囲まれた姿で眠っていた。
今日は奇しくも日曜で、明日は平日だが友引、明後日の通夜の日は祝日とあって、まるで出来すぎのような日取りだなあ、と反芻しつつも、息子には何か食べておくようにと弁当を渡し、自分もその一つを食べたが、
モノを噛んで味わっている感覚がしない。葬儀社の方の段取りの説明もあったが、まるで頭に入らない。とりあえずメモを取って、対応するしかなかった。
母のときも、なんだか用意されていた段取りに流されたような節もあって、今回もそうなるのかなあ、なんて、まさに他人事のように呆けていたのかも知れない。
しかしその考えは甘かった。身内にアレほどまでに振り回されようとは、このときには知る由もなかったからである。
その日は、一旦自営する職場に戻り、告別式の日には休まねばならない事の段取りをし終えて、妻の元へと戻った。
息子には、自宅に戻って通夜や告別式に向けて身体を休めるように伝え、自分は、この控え室で夜を明かす事に決めた。妻一人では寂しいじゃないか、と何故か思ったからだ。
物言わぬ妻は、まるで眠っているようだ。しかしその身体は、限りなく冷たい。僕は妻の亡骸に並ぶように座布団を敷き、其処に身体を横たえた。手を繋いでやりたかったが、
妻の両手は、むねの上で固く結ばれており、その上に何か重厚な布が掛けられてドライアイスまで載せられていたので、それは断念するしかなかった。
安らかに眠っている妻の身体に手を伸ばし、その肘辺りに手を添えて、僕は妻に「おやすみ」と言った。
続きます。
遺体と夜を過ごすのみならず、添い寝をする事には、恐怖や一種異常さ、更には狂気を感じる人も居られるかもしれない。
でも、その時の僕は、何ら異議を感じる事も無く、自然にそう出来たのである。
僕は少し眠ったのかもしれない。でも、妻は夢には出てきてくれなかった。
その事に僕は少しだけ残念な思いがした。
夜が明け、平日の月曜であるが、今日は友引であり、葬祭場は実質お休みである。
この控え室に僕と妻が居るだけであるが、程なくして息子がやってきた。今日はギリギリまで妻の傍に居て、仕事に通常どおり出かけ、最短で仕事をこなした後、最速で再びここに戻ってくるまでの間の交代要員として息子に来てもらったのである。
僕が息子を妻の傍に残している間には、後に判ったことだが、息子は妻と沢山対話をしたようである。僕は少しでも早く、息子のグリーフケアをしないといけない、と思うに至った。僅か14歳で母親を亡くしたのである。
まだまだ男の子にとっては母親の存在は大きい年頃。
しかも彼のその今までの人生の中で、半分が闘病している母親とのモノでしかなかった。
彼をそんな境遇に生まれてきた事に対して、本当に不憫で申し訳なく思った。
これは今でもずっと思い続けている。仕方のない事だとは言え、僕自身が母親を亡くした35歳のときですら悲しかったのであるから、まだまだ母親にも甘えたい男の子の14歳では、その悲しみは如何ばかりであろうか。息子には、一生詫びなければならないだろう。
こんな父の下に生まれてきた息子よ、どうかこの父を許して欲しい。母親の愛を充分に受けられたとは決していえない息子よ、どうか愛を知る大人に育って欲しい。
続きます。
>>334です。
奇しくも二晩、妻と共に夜を過ごせた。なんだか理由も無く誇らしかった。
ホントに他には誰も居ない二人きりの夜。まるで恋人時代の二人に還ったような気すらしていた。
もしその時の僕を眺めるものが居たら、異様なものに見えたかもしれない。
遺体に手を伸ばし、同じ天井を眺めるが如く、物言わぬ遺体に話しかける様は。
通夜の日になって、慌しくなってきた。それこそ、色々な人(葬儀関係者)がやってきて、色んな手続きをしたり、するべきことが一杯である。先ずは遺影を決めなければ。
僕は実は既に決めていた。
まだ息子が園児だった頃、近くの公園に出掛け、ツツジの一杯咲くところで息子がカメラのシャッターを押した一枚の写真。
僕は野球の捕手のように屈み、妻はそれに横から覆いかぶさるように、
それでも顔は前に向けてニッコリとした写真が在るのだ。
妻の瞳はしっかりとカメラを持っていた息子に向けられ、その瞳には小さくとも息子が映っていたに違いない写真が。
その事が父には気に入らなかったらしい。自分が仕切りたかったのだ。
酒臭い息を吐きながら、僕に散々罵詈雑言を浴びせて悪態をついて自宅に戻っていった。
どう思われようとも、僕はこの写真を遺影にする事にした。
妻は今も変わらず、あのときの息子に向けていた笑顔を僕たちにくれている。
修羅場が次々と襲ってくる事になるのだが、それはまた明日に書かせてください。
自宅に戻って家事をします。本当に長くなって申し訳ありません。
でも妻が亡くなって2年半経って初めて書く気になれたのです。
どうか我侭をお許し下さい。
皆さんおやすみなさい。
明日に続きます。
固定ハンドルをつけたのだから、「続きます」はいらんぞ。
ちゃんとみんな続きを探して読めるからな
おつかれ。
がんばれよ。
床の間で二晩、一緒に寝たよ
入院中、一緒に寝られなかったから。
北枕でも関係なかった
とにかく一緒にいたかった
あれ?おかしいかな?って戸惑ってしないと後悔する
最後の別れをしたらしたくても出来ないからな
> 永眠した妻と添い寝するのは狂気なのかな?
> 床の間で二晩、一緒に寝たよ
変じゃないよ。
俺の父も、亡き母と葬式までの二晩いっしょの部屋で寝てたよ。
添い寝じゃないが。