111:名無しさん@おーぷん2014/05/24(土)18:32:46 ID:???
親が経験した修羅場。
小学校の修学旅行は毎年長崎1泊2日の旅程だった。
ピックアップ記事!(記事の続きは下にあります)
最近、いじめの定義が広くなってて今の時代の子たちは生きづらそう。からかいでもいじめって...
夫婦喧嘩の後に夫が無断で家出する。1歳の子もいるのに親としての責任を放棄してる
旦那が平気で子供を危ない目に合わせる。危ないやめて!って怒ったら神経質と言われ...
小遣い制だけど「お金ないない」言いながら自分のへそくり貯めた。旦那は気づいていないみたいで...
家族のふれあいにこだわって、リビングを通らないと風呂トイレに行けない家を作った結果...
私「は?何かの間違いですよね?」役所「...」→ 戸籍謄本を取ったら6年前に離婚してた...
知人「字の意味知ってます?」私「えっ?調べてみよう...」→ 『脩(しゅう)』っていう名前をつけたら...
某アウトドアブランドの店に行ったら店員に「またミーハーババァが来たよチッ」みたいな感じで言われた。
ベビーカー女「取ったぞw」私「ヒッ!...」→ ベビーカーを押した女にすれ違いざまにひったくられ...
弟「慰謝料言い値で払うから内密に...」相手「5兆円払え」弟「分かりました!」→ 結果...
知らないお母さんに「うちも中受予定なのでよろしく。いろいろ聞かせてね」と言われたことあるわ。
弟「底辺の仕事乙ww」私「...」→ 今いる会社を馬鹿にされたんだけど、立派な仕事って何?
成人式の着付けは母がするって友達に話しちゃって成人式当日にいきなり友達親子が着物持って来たことがある。
私「遠距離の彼氏と結婚するかもしれない、誰にも言わないでね」同僚「わかった!」→ 後日...
私「目がゴロゴロするな...」女性「!?」→ トイレの手洗い場に栓してコンタクト洗ってたら...
義母「これで息子の孫も自分だけの物になった」義弟嫁「えっ...」→ 義母が恐ろしい一言を...
式で受付をしてくれた人に車代を渡してお礼もしたのに、「お礼もらってない」と文句言われた。
家事が得意で平日土日フルサポートしていたら、嫁が自己嫌悪で病んで実家に帰ってしまった...
日本企業「妊婦に優しい会社を作るぞ!」→ 結果、妊婦以外からの恨みつらみが爆発して...
嫁がやたらと家計を握りたがる。「同じロ座に振り込むようにしよう」って言っても納得しない...
嫁が夜勤を辞めたがっててつらい。収入が減ってまうのは痛いんだが仕方ないのかな?
旦那が息子たちの相手を全くしない。旦那「なんでお前らのために我慢しなくちゃけない」






















111:名無しさん@おーぷん2014/05/24(土)18:32:46 ID:???
複数の町をまとめて1つの地区とし、その地区内の小学校が順番に同じ旅程をたどるという、先生たちからしたら何とも楽な設定になっていたのだが、その年だけ例外が発生。
2日目に訪れる予定の島原市で普賢岳という活火山が活発化しており、一部住民が避難する自体になっていた。
しかし、メイン観光地である市内中心部は火山の影響はない!と学校側は判断し、地区の修学旅行は決行され、順番づつ長崎へ旅立っていった。
2日目に訪れる予定の島原市で普賢岳という活火山が活発化しており、一部住民が避難する自体になっていた。
しかし、メイン観光地である市内中心部は火山の影響はない!と学校側は判断し、地区の修学旅行は決行され、順番づつ長崎へ旅立っていった。
当時は毎日頭上を自衛隊のヘリが長崎方向に飛んで行くのを毎日見ていたし、なんだか異様な雰囲気だったのを小学生でも感じていたのに、今思えばよく決行したなと感心する。
お約束の通り、私の小学校が修学旅行中に普賢岳が大爆発。
この噴火で初めての死者が出るほど大きな爆発だった。
111:名無しさん@おーぷん2014/05/24(土)18:32:46 ID:???
幸いその日、私たちは1日目の長崎市内巡りをしており、火山とは別方向にいたが、当時は携帯なんてない時代、情報が満足に入ってこず、親たちから学校への電話と、学区内での混乱がすごかったらしい。
これはまだ小学校低学年だった妹から後で聞いた。
普賢岳の事は覚えていない妹が、親や近所の混乱っぷりは覚えていた。
これはまだ小学校低学年だった妹から後で聞いた。
普賢岳の事は覚えていない妹が、親や近所の混乱っぷりは覚えていた。
しかし、その頃の私たちといえば、島原市の一歩手前、雲仙の温泉に泊まっており、テレビ視聴が一切禁止されていたので何も知らず。
のんきにお土産選びやまくら投げとかして思いきり遊んでいた。
翌日、朝食の時に先生から普賢岳の爆発が発表され、2日目の予定が変更される旨の説明を受けた。
その話を聞いても「あー、自分らに当たったかー」と思った事しか覚えていない。
というか、その日はもう島原市は完全に封鎖されていて、道にカーキ色のつなぎ?を着た自衛隊が立っていた。ジープみたいなのもあった。
2日目の予定が丸々つぶれ、どこにも行くところがないため、雲仙の小さな公園で時間を潰した。
帰りは予定時間よりも大幅に早く帰ってきた。
戻ってきた小学校は、親や祖父母などの家族が沢山いて、何か凄い熱量で出迎えられて少し面食らった。そこまでなっているなんて当時は夢にも思ってなかったから。当人たちが一番冷静?だったんじゃないかな。
その日の夜は妹が私から離れなかった事をよく覚えているので、送り出した方は相当大変だったみたい。
オチなく長文スマソ
115:名無しさん@おーぷん2014/05/25(日)19:09:38 ID:???
あの時かあ。同僚は取材の応援で行く予定だったが一日遅れてその日に火砕流だったよ。
同僚が一緒に働く予定だった人は焼け死んだ。
同僚が一緒に働く予定だった人は焼け死んだ。