ジャスコで28円の豆腐を手にした所に、五歳くらいの男の子が近寄ってきて、私の持ってる豆腐を指差して
「ママ!こんな豆腐食べれるの?」と言ってきた
ママはチラッと私の方を見て笑顔で指でバツしていた
そしたら私に向かって笑顔で「食べれないよ。28円の豆腐なんて!」と言ってきた
だから私も笑顔で「28円の豆腐でも手をかけたらおいしくなるんだよ!ママ料理下手なんだね!」と言って去ったら
後ろから馬鹿だのデブだの貧乏だの罵声の嵐でした
もうなんだか・・
セーラー服の上から割烹着を羽織り、肩ぐらいまでの黒髪を無造作にまとめて
三角巾をつけてた(調理実習スタイル?)嫁はその部屋担当の給餌掛かりで、
仕出弁当やお酒を振舞うため独楽鼠のように忙しく働いていた。
高校時代、私とA子はイジメを受けていた。
私は勉強は割合に出来たが運動が苦手、オマケに顔がバナナマンの日村を
坊主頭にした感じでバイキン扱い。
A子は美人で勉強も運動も出来たが、クラスの主流派に合わせることに興味が
なく、主流派を自負する女子達からは白眼視されていた。
当時はアムラーファッション全盛期だったけど、茶髪にもせず化粧もしない、
でもA子の方が遥かに輝いて見えて、正直なところ私は憧れていた。
私は主に男から、A子は主に女からイジメられていたが、能動的にイジメていた
のがB♂、C♂、D♂、E♀、F♀のグループで、中でも主犯格のBとEは付き合って
おり、互いに「面白いこと考えた!」とエグいイジメを競うように考えていたように
思う。
私は無視とバイキン扱いがメインだったが、A子は性的な物も含め、かなり酷い
イジメだったと思う。詳細は胸糞悪いので書きたくないくらいに。
私もA子もイジメられっぱなしで高校生活を終え、私は本州の北の外れから
西の外れの国立大へ行き、A子は海外留学した。
故郷から遠く遠く離れた環境で、非モテなりに大学生活を楽しみ、無事就職。
それから十年近く経ち、どこから知ったのかA子から携帯に電話がかかってきた。
「来月の同窓会どうする?」
大学卒業頃から、毎年出欠ハガキが来てはいたが、毎回無視していた。
「是非、今年出て欲しいのよ。ちょっとやり返したいからさ。君も協力してよ」
他の連中に会いたいとは思わなかったけど、きっと、もっと綺麗になっているA子
には会ってみたかったので、出席すると返事を出した。
考えられないなら、嫁さんに1つ1つ聞いて教え勉強しろよ。
夜通しな。泣くよ、多分お前。泣いて人生が変われば、嫁さんも変わってくれるよ。
お前がイトコを守っているんじゃなくて、イトコに操られているんだなお前は。
冗談にしても非常識すぎる!
この担任、池沼をゲロ甘く育てていたので、俺達は授業中に突然発せられる奇声や
理解不能な感情の爆発に振り回されることになった。
更に悲惨だったのは、週替りで「お世話係」に任命される女子だ。というのも、男子の
言うことはまったく聞かない。
女子ならば、ベタベタ甘えるという被害はあるものの、何とか言うことを聞くんだ。
兄や姉達は、母にとてもよくなついていったらしい。
いくら産みの親とは言え、自分をほったらかし遊びほうけ、
迎えに来た後もろくに世話しない母親達より、
愛してくれ叱ってくれる私の母を兄達は選ぶようになった。
兄達はいつも、「帰りたくない」とごねるようになった。
そしてその頃から、兄達の体には傷が出来始めた。
私の母と、兄達の母達との話し合いが始まった。
「そんなにうちの躾が気に入らないなら引き取れ。
100万もあればそっちによこす。」
と、兄達の母達は言ったらしい。
結局それが結論であり、さらにいろんなゴタゴタを乗り越え、
兄達は私達家族の一員になった。
どんなゴタゴタがあったのかは、未だに詳しくはわからない。
父は口を固く閉ざしたままだ。