ママに恵子を引き渡し、えらそうに俺が
「恵子をお願いします」って頭を下げた。
ツボだったみたいで二人に号泣された。きっと色々な思いが詰まっていたのだろう。
思いが強ければきっとまた点と点が結ばれる。
もう恵子が大好きでした。
何年経ったら帰国するとか具体的な目標はなかった。
自分の技量一つで結果は変わる世界なのでゴールは無いに等しかった。
そこで、飯を食って行くから飯を食わせるにジョブチェンジ。
恵子を養えるようになったら帰国って考えました。
恵子にはそれを伝えませんでした。幼い彼女を縛り付けることはしたくなかった。
渡米前後はよく覚えていません。
ストーリーを創作しても良かったのですが、しないでおきます。
俺は必死でスキルアップに勤しんだ。
酒も煙草も断ち、大会でも成績を残せるようになってきた。
いくつかスポンサーがついて、バイトの毎日から徐々に解放されていきました。
それまでに2年の歳月が流れていました。
今と違って海外との連絡方法のメインは手紙。年に数回の電話。
パソコン通信?インターネット?メールってただなの?うまいのそれ?という時代。
毎週のように届く恵子からの手紙。俺も毎週返していた。
郵便局の退役軍人のおじさんに早く帰って幸せにしてやれと毎週言われながら手紙を出していた。
恵子の生活や学校のこと、正の字で手紙の片隅にカウントされていく暗号。
離れていても身近な存在として恵子は居ました。
俺も今日は何したから晩飯のメニューまで書きまくった。
あるとき暗号が気になって電話のとき聞いてみた。
俺「正の字ってあれなに?」
恵子「なーいしょ」
俺「どんどん増えてきて目立ってしょうがない」
恵子「いくつだっけ?」
俺「14かな」
恵子「告られた回数だよ」
俺「」
恵子「けっこうモテるんだよ」
俺「ふーん」
恵子「ふーんて」
俺「モテモテじゃないか!」
恵子「そういうこと書いてるんじゃない!」
恵子「」
恵子「会いたい」
俺「高校卒業したら遊びにおいで」
恵子「いーま!」
俺「」
恵子「うそ。卒業したら美術大学行くよ」
俺「勉強はどう?」
恵子「学科は迷ってる。造形も油も陶芸も好き。おじちゃん達(教授達)もめてるよ」
俺「」アイドル取り合いか
デッサン画を送ってもらって見ているので納得。
俺なんか及びもしない域に達してる。
俺は引っ掛かっていた。年頃の娘さんが俺みたいな不安定な奴に引っ掛かってることに。
恵子からの手紙も徐々に減ってゆき、半年後くらいにはゼロになっていた。
俺の意図は普通の人のように幸せになって欲しい。
俺のような先のわからない人間に引っ掛かって欲しくない。
同年代の友達と恋をして幸せになってもらいたい。
俺のやっているスポーツがちょうど伸び悩みの時期に差し掛かっていた時期
今思うと少し病んでいたのかも知れない。
俺なんか俺なんか…
スキルアップしても大国には俺レベルは余る程いる。自暴自棄になっていた。
今これを書いていて「当時の俺バカ!!」と言いたい。
それがあったから今がある訳で…ぐぬぬ
正月には一時帰国しようかと思っていたが大会の日程が重なり断念。
恵子と連絡を取らなくなって一年弱経っていた。
大会で結果を出さないとスポンサー契約が切れてしまう状況だった。
結果
出来ない事をやって失敗し大怪我を負ってしまった。
選手生命が途絶えてしまった。
寝たきり1ヶ月リハビリを半年。それでようやく常人になれるかもといった具合。終わったと思った。
入院は家族にも伝えなかった。もちろん恵子にも。
目標を失い、生きている事に辛くなり自殺を試みるも身体は固定されていてほとんど動かない。
なにもできない。
辛かった。
ケーブルを繋いで映った映像は燃えている神戸。横倒しの阪神高速。
なんの映画?
…だろ?
何が起きているのかわからなかった。
電話口までストレッッチャーで運んでもらい電話をするも通じない。
電話線を病室まで引っぱってきてもらい一昼夜掛け続けた。
ようやく姉に通じ、安否確認が取れた。
恵子家族と連絡を試みているところだという。
同時に怒られた。連絡しない事に対して烈火の如く怒られた。
病院の番号を伝え、安否確認取れ次第連絡をくれることに。
アメリカの病院は柔軟に対応してくれた。院長らしき人が個室を提供してくれ、
連絡がいつあってもいいようにしてくれた。
そして毎日知らない人が病室を訪ねてきて励ましてくれた。
アメリカは国は知らないが、いい人が多い。
安否確認が取れないまま寝たきり生活が1ヶ月過ぎ、ストレッチャーごと帰国する事になった。
院長?の計らいでナース付き。今はなきノースウェストのファーストクラス横で寝て帰国した。
帰国数日後
恵子は家屋の下から発見されました。
おい
彼女は俺の大学同級生宅に絵の練習に行った際に震災に遭い亡くなりました。
俺と知り合わなければそこには行かなかったであろう場所。
死んで恵子にお詫びを言いたい一心でどうやって死のうかどこなら死ねるのか
満足に動けないからここで死のうかどうやって?どうやって?
気が付くと病院の一室でした。心停止して蘇生されて生かされていた。
細かい事は覚えていないのですが、ママが病室にきてくれていて話してくれました。
実に17年前だ。
短い一生だったけどいっぱい幸せをありがとう。
あの子は一生懸命生きた。
それくらいしか覚えていない。
ママは娘が亡くなったのに気丈に振舞っていた。
俺が死んでお詫びをとかなんとか言ったんだと思う
パシーンとほっぺたを叩かれました。
娘の分まで生きろ!!!
書いてて泣き過ぎて辛い。
叩かれた後ママといっぱい泣きました。
ママは今、東北で復興支援しています。
書き溜めもこの肝心のところまで進まなかった。
泣き過ぎて辛いのと、嫁がコタツで寝てしまっているので
一旦ここで中断させてもらいます。
再開は十分書き溜めてからにさせてください。
こういう話をちゃんと聞いてやっと
震災にあったひとたちの気持ちはどんなだったのか考える
こんなだったのかって・・・マジか・・・・って
なんか…ごめんなさい。
ちゃんとしてなくてごめんなさい。
1さん今幸せですか?
恵子さんの思い出と一緒に、恵子さんの分まで幸せになって欲しいです。
モニター見えねぇじゃねぇかうあぁぁぁぁぁぁぁぁぁん
仕事中なのになきそうだ
鬱展開で止めてしまってすみません。
俺は今幸せなのです。
40過ぎのおっさんが幸せとか何書いてんだと。
どんな不幸な状況にある人でも生きてさえいれば
その不幸があったから今の幸せがあるというのを書きたいのです。
今年の震災でドン底を味わっている人はたくさんいると思います。
必ず幸せは訪れます。俺みたいに時間の掛かる人も居るかも知れません。
頑張って欲しいのです。
十数年の事を書いて終了させてもらいますが、書き溜めをしてから再開させてください。
とてもじゃないが
三行では
説明できない
おっさん
語る
全部嫁