漁師の祖父に船を、水屋(家の一階が半分海に繋がっている家。
うちでは倉庫に使っていた)に入れるように頼まれた。
夕飯準備が出来ると、家外に自分で建てた小屋へ私達子供が呼びに行っていた。
その時に酒量確認とヨパライ度確認…ヤバそうなら母と祖母に目で合図。
酒量が多い日は必ず祖母に絡み、暴れて止められず近所で働く父を当時小学高学年の私が泣きながら呼びに行く日々。
ある日のじぃちゃん、家へ来るなりナタを振り回し襖や壁を私達の目の前で破壊。
止められずまた父を呼ぶ。制止時にもみ合い父とじぃちゃん流血…
またある日、日本刀を持って来て祖母の顔に突き付け「お前は俺様をバカにしとる!」と…
沖縄返還の8年前に生まれた私
お盆になると、偶に沖縄戦の生き残り組だった祖父たちの奇妙で素敵な話を思い出す
前後の話を祖父から聞いて、なんでそうなったのかが分かった
自宅の近くに、頑固なのに愉快な小父さんが居た
祖父たちを大変可愛がっていたようで、沖縄戦が始まると頼りがいある兄貴的な存在だったそうだ
戦闘中、艦砲射撃かで祖父の近くで小父さんは戦氏
仇を討ってやろうとやっているうちに終戦
終戦の翌日、祖父の夢枕に小父さんが立って、怒りながら「○○、ここは我が国じゃない! 成ったら帰ってくる!」と告げて消える
他の生き残り組に伝えたら、「あの小父さんらしい。いつになるやら」という反応だった
その記憶とは、幼い私が母に抱かれて、何かの集まりに参加しているというものだった。
そこにはたくさんの人がいたんだが、私の視線はあるものに釘づけになっていた。
そのあるものとは、長い台の上にたくさん散らばるようにしてある白い物で、その中でも台のてっぺんの方に置かれていた白くて丸い大きな物に私はひどく興味を惹かれていた。
幼い私は、「あの大きなのは何だろう、触ってみたい!!」と手を伸ばしていたんだが、母に抱かれているのでほとんど身動きは取れず、大きいのにも他のにも触れないままだった。
祖父が家庭内で絶大な権力持っていて、剣道の上級段持ちだったから腕っぷしも最強だった。
気に入らなければ殴る蹴るは当たり前、罰するときは壊れた竹刀で(竹が割れて鞭みたいになる)暴力をふるった。
でも、お菓子とかお金は気前よく親戚一同に配る一面もあった。
よく言う飴と鞭ってやつが絶妙に上手かったんだと思う。
そんな生活だったから誰も逆らえず誰も逃げられなかった。